点と点が線で繋がるなと最近感じたのは?
木ノ宮地蔵堂。
木宮(キノミヤ)か…
三芳町上富の木ノ宮地蔵堂(きのみやじぞうどう)
去年、国宝千体地蔵堂がある東村山・正福寺の地蔵まつりの帰りに
ふと思う事があって立ち寄りました。
前々から不思議に…ふと思ったことがあります。
何で木宮(きのみや)って言うの…?
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地名で小字は木ノ宮らしいですが古くから地蔵野と呼ばれた所で根本的な所で疑問といくつかの共通点。
Googleでキノミヤ信仰とあってWikipediaで検索するけど今回はちょっと違うかな?
昔は木々が多くあったからだよ♪と言ったら叱られそうですが
調べて行くと…
新座市のゆるキャラ
ゾウキリン雑木林…
自分の妄想の域ですがある人物を介すと共通の所に
辿り着くなと思いました。
追記添削など前後の文脈、伝えたい真意が意味不明になってますが…どうか宜しくお願い致します。
木ノ宮地蔵堂(または武蔵野地蔵堂)
『富(とめ)の地蔵さま』とも呼ばれる
この地域に古来より人々に篤く信仰されたお地蔵さまを祀る地蔵堂があります。
縁結び、子授かり、子育てなど様々な御利益ある木ノ宮地蔵堂
簡単に要約すると
延暦二四年(805年)征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷東征でこの地で難にあった所
地蔵菩薩が現れて助けたそうです。
他にも時代は少し下って鎌倉時代…
二階堂隠岐入道(二階堂行村?)
という人物、武士を助けた
または時代が下って鎌倉時代後期や室町時代初期にかけて
二階堂氏(各地に諸氏輩出しているので?多いですが)に関わる様々な逸話が周辺各地に調べて行くと散見していますが時代を考証すると
本当にあった真実味がある話も多々あります。
伝承、口承なのか?
一つ一つの話の年代と実際にあったか?真実は分からないですが
史実と照らし合わせると共通点も見つかりました。
三富新田開拓(三芳町・上富、所沢市中富・下富)の中心地である武蔵野の原野に古くから信仰篤かったのであろう
木ノ宮地蔵堂
東村山正福寺・国宝の千体地蔵堂にも見劣りしないな…
と堂内はどうなっているのか?
初めて訪れた時から興味深かったです。
お祭りの準備中…宵宮でしたか。
翌日夕方行くと…お祭りの片付け中w
以前、檀家の皆さんが木戸を閉め祭りの片付けの最中にお参りしましたが
安永六年(1777)に再建された現在も残る地蔵堂と
これが本尊の木製!?の地蔵菩薩像でしょうか?坐身ですかね。
堂内が装飾品や仏具が意外と無くてさっぱり?
※奉納絵馬や天井画は素晴らしいです
何度か火災に遭ったからかな?と思いました。
裏手にある奥の院。
ここから本題から少し内容が離れますが
もう一つのお地蔵さまが…
古尾谷木目郷…今の川越市木野目に居たのであろう?
木ノ目長者・杉山長五郎が寛永19年(1642)
火災に遭い本堂が焼失した
※鎌倉時代に二階堂氏が再興した時代の本堂(今は無い仁王門も?)などが焼失したようです。
木ノ宮地蔵堂に石地蔵坐像を現世利益と子孫繁栄を願い寄進したようです。
当初、この武蔵野の原野は茅(萱)など周辺村々にとっては牛馬の貴重な飼料や肥料になり屋根材の材料や雑木林の木々は炭焼きにしたりと生活をする上で今の時代からすると何も利用価値がないような原野でも大事な土地で管理する野守に野銭を払って利用していたそうです。
時代が江戸時代になると村々で原野の新田開発が進むと従来の秣場権を持っていた亀久保(亀窪)村の野守と他村領域、特に川越藩領の農民との間で度々裁判や殺傷沙汰になる様な争いで秣場争論になり
裁判の結果、川越藩領になってから三富新田開発が始まったようです。
三富開拓で周辺村々から新田村に移住した村人の拠り所
多福寺もまだ無い時代に
本堂が再建されるまで50数年掛かったそうですが
いち早く寄進した木ノ目長者は一体どんな人物か?
興味深く思い調べると
木野目長者って誰だろう…?①
木野目長者って誰だろう…?②
木ノ宮地蔵堂の奥の院に石地蔵座像を寄進した古尾谷木目郷にいたであろう杉山長五郎と
木ノ目長者の屋敷地跡にあると云われる木野目の六角堂にある観音堂と
かつては寺尾城址があったのでは?という
新河岸にある蓮華院観音堂が木ノ目長者に纏わる場所です。
堂の入口に~北条氏に縁ある人物が建立した寺院であるのを伺わす記述ですが
明治期の新河岸で起こった大火で焼失し三つ鱗の紋は水鉢に残るのみです。
↑最近、以前から探していた川越市史全巻買いました♪
絶版残部無しの巻もあったり古書でプレミアになっている巻もあり揃って入手できるとは思いませんでした。
以前から購入した巻と重複あったり汚れはあれど信じられないほど安かったです。
川越市史編纂にも携わっていた
旧大井町出身の郷土史家の新井博氏著書には
木ノ目長者は杉山小学とありますが入間郡誌を見ると
大河内氏ともあるのが不思議に思います。
確かに六角堂裏手を見ると杉山氏の方が一族の墓地を維持管理され渋井の蓮光寺の本堂修復の寄進者名でも大河内姓も含めて六角堂裏手で見た杉山姓の名を見たり新河岸のお地蔵さまを見ると杦山姓で刻まれていますが
確かに川越近郷に木ノ目長者の子孫の方はいらっしゃると思いました。
古尾谷木目郷※現在の川越市木野目にいたであろう長者
杉山小学と
この奥の院の石地蔵坐像を寄進した杉山長五郎
同じ地域のほぼ同じ年代の方ですが小学=長五郎?
名前からはっきりと同一人物と結びつく資料や記述の部分がないです。
杉山姓で気になって調べると
埼玉苗字辞典の
藤久保の杉山姓は本名黒須氏で渋井(川越市渋井※古刹である蓮光寺のある地区です)の旧家・黒須氏の出で北条早雲の妾が駿河国駿東郡?茶畑氏に嫁ぎその時生まれた子が黒須長右衛門吉永で後北条氏と深く関係ある氏族だったのが伺えます。
ここから見える地区が渋井の小字で『駿河』…
『街道端』はこの三ヶ島街道から続く(県道56号線)道は古より奥州街道(奥州街道の脇道・枝道か?)と云われ要は鎌倉街道との事ですが『駿河』という字名の由来がひょっとして…
駿河国出身の人物や川越城主大道寺氏が駿河守だったり隣の地区の古市場には今川家旧臣の旧家・沢田家もいらっしゃる地域なので…まさかこんな小字名が残っているのかと思いました。
杉山長五郎か…と引っ掛かる部分があるけど今回の話と関係ないです。
※木ノ目長者の部分は、今回あまり意味無いので添削して上記の部分消したかったのですが…
消すと文字化けでやたらスペースがでっかくなるのでこのままですみません。
広い境内に↓こんな看板も
縛られ地蔵ですか…w
永享年間に地中に埋めた地蔵尊…
お地蔵さまにまつわる話が幾つかあるそうです。
入間郡誌(三芳村の項)には
最後の三行辺りの野話の所からだと…
地蔵堂の前を通る人に追剥、強盗、好淫等行い村民が土中に埋めたそうですが…この後の部分は難波田城址の五輪塚の話のように掘り起こすと日が暮れて翌朝再び掘り起こそうとすると埋まっている…
と書いてあるな~と思いました。
新編武蔵風土記稿だと
建仁元年(1201)二階堂隠岐入道にまつわる話と地蔵堂を庇護したような記述ですが
縁起はもとより妄誕の事多くて取るべきものではないと注記していますが古くからある地蔵堂で近郷に知られた所とあります。
今は多福寺が管理する木ノ宮地蔵堂ですが
昔は川越市南大塚の西福寺と
ふじみ野市亀久保(旧大井町亀久保)の地蔵院が
別当として上富の多福寺が創建される前からごく近年まで管理していたそうです。
この二つの寺院は宗派が今は違えども山号が↓
木宮山 地蔵院 西福寺(きのみやさん じぞういん さいふくじ)
宗派は天台宗
亀久保の地蔵院は?
新義真言宗・木宮山地蔵院
別名・佉羅陀山地蔵院薬王寺
しだれ桜が有名です。
【木宮山】と共通しているのが不思議で調べてみると…
この家紋、三つ亀甲の内七曜(六郷亀甲)
江戸時代に秋田、由利本荘藩を治めた六郷氏(二階堂氏)の先祖に
まつわる話なんだと気付きました。
亀久保の地蔵院と言えば…
以前こんな昔話を見つけました。
伝説や昔話、口述など言い伝え等々…郷土史や色々な本を読むと
上の解説は随分とオブラートに包んだ表現でお地蔵さまが
夜な夜な…ただ出歩いた訳ではないようです。
木宮地蔵堂のある三芳町上富には囃子保存会があるようで
立派な山車
川越まつりの山車も有名ですが三芳町上富に立派な山車と昔から囃子があるのでびっくりしました。
木宮地蔵堂前の三富開拓の地割りでひと際大きい家が開拓名主の島田氏
地蔵堂に古来よりあったと云われる地蔵街道は
今までここを通らないで来ていたので
ただの獣道…雑木林の小径と思ったら歴史ある道でした。
最初…地蔵堂の外れにあると思った乳神様(子育て地蔵)
ひょっとしてメインルートの前にあえて建立したのだと思いました。
こうやって見ると…
この地域(入間東部地区)で古いと云われる
奥之院の石座像のお地蔵様のある場所も意味があるように感じますね。
※三芳町史・民俗編を読んでみるとある記述が気になりました。
が後述します。
地蔵街道を旧大井町・旧川越街道方面へ向かうと
左は大塚街道と呼ばれる道
武士が通った道だったそうです。
道なりに向かうと地形の高低差、窪地に…
古来亀窪(亀久保)村と呼ばれた所らしいと思う暗渠化されてますが福岡江川の水源に当たる上流域があります。
川越街道旧道と現・国道が合流する辺り小字名で「亀居」に
亀久保神明神社が鎮座されています。
冒頭の木宮とどう関係があるのか?と思いますがある記述が大変気になりました。
亀久保神明神社
よく通るのですが神社境内まで入ってお参りするのは久しぶりですね。
神社の縁起由緒など歴史が記された案内板を見ると
抜粋すると慶長三年(1598)創立
新編武蔵風土記稿から神明神社は亀久保の地蔵院が別当として管理し
川越夜戦で敗れた斎藤別当実盛の子孫である利長・信広親子が入間郡野老沢(所沢)に住み着き一族の武運長久を祈り京都から所沢に神明社を勧請し
信広より六代目次男が
享保年間に所沢にあった神明社を木の宮稲荷社の地へ勧請し…
何?木宮稲荷ですか!?
木宮稲荷って
三芳町藤久保の南端でしょうか、川越街道沿いにありますよね?
川越街道の上下線に挟まれた所に幟旗ありますが
木宮稲荷
木宮稲荷とは…
新編武蔵風土記稿には東条院持ち(神仏習合の時代は寺院が別当として管理)の稲荷神社として記載有ります。
どういう関係かは?ですが
大井町史・民俗編にこういう記述があります。
今、亀久保の神明神社がある所は慶長年間に祀られていたのは
実は木宮稲荷で
ある方の氏神だったと記述がありますが
『神盗みの伝承』?があるとは初耳でした。
ここでも木宮というのが気になった次第です。
よく明治期の神社合祀で稲荷神社の合祀では地域の人達が災い恐れて皆で順番で持って行ったとか、合祀後災い有れば元の地に社を復し祀ったりとあるのですが…
藤久保の木宮稲荷で三芳町史・民俗編を見てもその点では記述は無いです。
木宮地蔵堂を介して
木宮(きのみや)って何だろう?
二階堂氏・六郷氏って…?
と調べて行くうちに謎が深まるばかりですね。
新座市のある古刹へ行って調べてみて共通点から分かった事があります。
なんか中途半端ですが…続きます。
今日もご覧頂きありがとうございます。