川越市の古谷地区(南古谷・古谷上・古谷本郷)は調べると意外と歴史や史跡があるものだと
感じていますが…
荘園だった古尾谷庄から発生したであろう古尾谷氏
古くからこの地を治めていたであろう氏族ですが有名な氏族ではないので調べても興味深い史実は少なく系図がはっきりと残ってはいないので謎が多いです。
唯一の手掛かりは古谷上にある古尾谷氏館跡にあるといわれる
善仲寺
昔は道に迷って辿り着けないと言われたのは城館跡なんで妙に納得…
古谷本郷にある古尾谷八幡神社へ寄進した記録など
弘安元年(1278年)藤原時景社殿を復旧して梵鐘を奉じるとあり
この藤原時景の名前が出てきたので由来の分からなかった
春日神社は氏神である藤原氏に縁のある人物?が治めた土地だと思いましたが
この藤原時景が
古尾谷左衛門尉時景だと分かったのは埼玉県名字辞典の古尾谷氏の項です。
古尾谷時景は亡くなったのが弘安八年(1285年)
霜月騒動と関係があるのかと少し思いましたが分かりません。
とはいえ↑の内藤氏流古尾谷氏
内藤系図で見ると左衛門尉時景の
父であろう肥後守盛時が亡くなったのは
建長六年(1254年)との事です。
さらの内藤氏の系図だと時景から見て祖父?先々代の
内藤左衛門尉盛家は嘉禄三年(1228年)89歳で亡くなったとは本当なら大往生された人物ですね!
亡くなった年代が分かるのは菩提寺の過去帳などの他に言い伝えや墓石に刻まれた年号でハッキリと見て分かる内容があるのでしょう。
時景以降の系図は
景家⇒景幸⇒義景
以降の系図は分からなくなっている面があるので義景の子や子孫らの時代までは確実に系図を残してあったのでしょうか?
盛時の時代に弟である七郎豊後守盛義は
比企郡高坂村を領し高坂氏を称すとあり
これが後に古尾谷氏の存亡に関わる重大な争乱になる理由が垣間見えます。※後述します
古尾谷庄は八幡神社が古くからあるので山城国石清水八幡宮の荘園だったのでしょうか?
天福元年(1233年)五月 武蔵国古尾谷庄地頭預所内藤判官盛時が見え
古尾谷八幡神社鐘銘に
※どこかに保存されているのかもしれませんが現在神社に鐘は見当たらないです。
『弘安元年(1278年)藤原時景は此邑(このむら?)を領す』
とあり子孫は在名で古尾谷氏を名乗るとあります。
観応三年(1351年)閏二月、新田義宗ら西上野に兵を上げる。
鎌倉足利方に古尾谷民部大輔・古尾谷兵部大輔は従う」
古尾谷氏は北朝方として戦ったのが伺えます。南北朝の時代・争乱や観応の擾乱と呼ばれる争いに巻き込まれて一族の命運や家名を掛けて戦ったのでしょう。
どちらの派に付いて戦うのが有利だったのか?
結果的には古尾谷氏の隆盛を感じられるのが
南朝方で戦い破れた伊佐氏が古くから治めて居たであろう常陸国伊佐郷を所領する事です。
ちょうどこの時期に土木技術に長けた伊佐氏を常陸国伊佐から呼び伊佐沼を造営したのでしょうか!
鎌倉円覚寺大般若経に
延文四年十月(1359年)古尾谷刑部大輔義景 の名が見られて
康安二年(1362年)古尾谷刑部大輔入道
※義景が出家した年か亡くなった年でしょうか?
内藤氏流古尾谷氏の項で最後に気になる部分が…
鎌倉雲頂庵文書に「応永五年三月十日、足利氏満は、古尾谷八郎四郎泰幸の訴えを棄却し、足立郡中茎郷(さいたま市・中釘?)地頭職を建長寺塔頭大統庵領たらしむ」と。常陸国新治郡大増郷へ移住す。
応永五年(1398年)三月十日
鎌倉公方・足利氏満が古尾谷八郎四郎泰幸の訴えを棄却し所領していたのであろう地頭職が認められなかったのか奪われたのか?定かではないですが…
常陸国新治郡大増郷へ移住とあります。
ちょっと遠いよね…きのこ山?より向こう側です。
実はそれ以前に気になる争乱が…
今の川越周辺には河越氏が広く治めていた時期があります。
源頼朝との姻戚関係で隆盛を誇ったであろう有力御家人の河越氏 源義経の義父として疑いを掛けられて謀殺され一族は衰退しましたが河越尼のおかげで存亡の危機を救い再び鎌倉幕府~足利幕府初期の頃までに重要な地位や隆盛を誇っていたのが忽然と雲行が悪くなる事態が
高坂氏との繋がりもあったのでしょうが古尾谷氏も名を連ねていたとか…
当初、それに加担したから古尾谷氏は所領を没収されて衰退し常陸国に移ったように感じましたが…
実際にはそれが理由だとの裏付ける記述もないし常陸国に移るのはもう少し後の時代にも感じますがどんな処遇を受けたのでしょうか?
※高坂氏で調べると…疑問点が秩父平氏と呼ばれる高坂氏は伊豆国守護代だった高坂氏重が平一揆を起こし滅亡とあり後の足利氏満が所領を鑁阿寺に寄進とあります。
足利氏満は所領を没収したのを寺社に寄進するのが多いと難波田氏の件でも、この高坂氏の件でも感じました。
古尾谷氏から出たであろう高坂氏も関わって古尾谷氏にも影響があったと最初に思いましたが…どうやら違うかな?
承久の乱後に恩賞で紀伊国・伊都郡・揖理郡・揖理村など
新補地頭として入部したとあり、内藤氏族の高坂氏一族も比企郡高坂村から(貞応元年(1222年))他の新補地頭された氏族同様一族で移住したようで後のこの一揆と関係が無かったのかと思いました。
次は常陸国・古尾谷氏に関わる内容です。
真壁氏文書に永徳三年(1383年)五月、足利氏満は、真壁源法寺郷・前肥後守古尾谷朝景をして其地を付くとあります。
伊佐沼の記述は
に載せたのでここでは省略しますが
真壁長岡文書に至徳四年(1387年)四月二十九日
安部田郷(※当時、真壁郡大和村)古尾谷肥後守朝景が入部した云々の記録が残っており
実際に武蔵平一揆(1368年)の騒動で責任を追わされての所領没収で移転とは違い
年代が下り古尾谷氏存亡の危機までは行かないまでも…何があったのでしょうか?
武蔵平一揆で河越氏など旧態勢力を一掃した鎌倉公方足利氏や関東管領上杉氏の元の何かがあったのでしょうか?
文安三年(1446年)二月十八日
臼田喜平文書に憲景に跡を継げる子が居ないので縁者の臼田勘解由左衛門尉の子息・藤四郎政重に譲り渡すと花押もあり正式な文書なのでしょう。
またこの時代の古尾谷憲景は憲の字から関東管領山内上杉氏より諱を貰っていたのでしょうか。
関東管領・山内上杉氏に被官とありこの時代の山内上杉氏は…永享の乱後、上杉憲実と思いきや1446年という年が憲実がちょうど出家した時期と重なるので擁立された息子の上杉憲忠でしょうか?
憲景の所々の本領を政重に譲り与えたとあり内容からして
常陸国の古尾谷氏は別に没落して常陸国に移住した訳では無さそうですが…
※不思議なのは所領?名主職のあった古尾谷庄に継がせる縁戚は居なかったのか?
後に仲氏の項で気になる点があり後述します。
取り敢えず応永六年(1399年)に古尾谷氏存亡に関わる事が…確かにあったようです。
跡継ぎが居ないのでこの後は臼田氏の系統の古尾谷氏になるので通字の『景』が見られなくなるので名前から見て分かる内藤氏系統の古尾谷氏は系統が追えなく分からなくなります。
時景以降の系図は
景家⇒景幸⇒義景⇒朝景⇒憲景⇒?
とはいえ、臼田氏の系統になった古尾谷氏
その地で敵味方に目まぐるしく情勢が変わる
戦国時代の常陸国大増郷で大増城主として地域を収めていたのでしょう。
天文一八年(1549年)十月七日
小田氏治が領地を古尾谷広四郎に宛がうとあり
小田氏の元、上杉謙信や佐竹義昭や義重
後北条氏等との三つ巴の攻防を戦ったのでしょう。
永禄二年(1559年)八月に
大増城主・古尾谷隠岐守治貞
城下に曹洞宗正法寺を開基
古尾谷氏の菩提寺として。
大増城落城の際は古尾谷氏はどうなったのか?
一族郎党どうなったのか気になりますが佐竹氏に降伏した後は佐竹氏に仕えて関が原を迎えたそうですが日和見な態度が徳川家康に嫌われたのか?秋田へ減封の上、転封
多くの家臣を抱えての減封は大変だったでしょう。
秋田(久保田)藩士として古尾谷氏は家名を残したそうです。
古尾谷氏が常陸国・大増郷へ1387年頃移り住んだ後
旧領の古尾谷庄はどうなったのでしょうか?
仲氏と古尾谷氏家臣だった仲筑後守資信と
関係する氏を調べると…断片的ですが思わぬ事実が出てきて本当かな?と思いました。
う~む、埼玉県名字辞典恐るべし…
※ただしこれの記述を全部鵜呑みにすると有力氏族のルーツやよくある地名は皆渡来人系になるので慎重になりますが客観的に残った事実を突き合わせるのに参考になりました。
今日もご覧頂きありがとうございます!
新編武蔵風土記稿の古谷上村の善仲寺の記述では五輪塔が壊されていると…理由もなく書かれているが…やはり何かがあったのだろうと最初に下調べした時から思いましたが
境内に残る板碑の形から相当古い時代です!
次はそれぞれの古尾谷氏…⑥です。