友よ | RikiStyle

友よ

5日の夜。
ショーを見ながらお酒をいただいている時に

一本の連絡があった。

仲間が山で息絶えた。

なんというか、焦点が狭くなり暗くなるような感覚で
目の前では派手なショーが行われているのに
そこには色がなくなり、僕には音が届かなくなった。

あいつが中学生?くらい
から一緒に滑ってたんじゃないか。
当時はとんでもないバカヤローだったけど
最近はなんだか
とっても柔らかく温かで頼もしかった。

この春も彼のいる島に
僕のヨットにスキーを積んで滑りに行こうかな
メンツはスキーは俺とアイツ。
共通の友人であるスノーボーダーと
カメラマンとなんて妄想していた矢先だった。

 

この冬、近しい仲間が2人も逝った。
1人はまだ見つかってもいないが
状況から考えてもう希望はほとんどない。

しかもどちらも僕よりずっと若い。
そして同じような世界に生きがいを感じ
挑戦を続ける、本当に近しい仲間だった。

山に命をかける価値が本当にあるのか。
何度も浮き上がる自問。

僕は幼少期から極端に死を意識し

死というものに怯えている子供だった。

 

小学校に上がる前から

人生の終焉というものを考えるだけで

胸が苦しくなり「死にたくない!」

と母親に泣きついてよく困らせた。

 

そんなチビだったから

やりたいことは全部やって

悔いのない人生を生きる。ということを

その頃からずっと思って生きている。

 

でもやればやるほど知見は広がり

やりたいこと、行ってみたい場所は増えていく。


より難しいラインや厳しい環境への可能性が見え
その可能性の先にあるものへの欲求は高まる。


その可能性の先にあるもの
それは確かに死の危険との境界線に
近づいていく行為だとは思う。

 

正直、僕も
滑ってみたい場所や見たい景色
やってみたいプロジェクトは
少しずつ

その方向へと歩みを進め続けていることは否めない。

生きてこそ。であることは間違いないし

死んでまで何かを成す価値なんてない。

しかし山での感動をなしにして生きれば
この命の価値は薄れるだろう。
命を失う可能性自体は下がり
価値の薄れた命は残るのかもしれないけれど。

そのさきにある感動や達成感は
僕らの命に本当の生きる意味を与えてくれる。


この世に

この宇宙の地球というこの星に生を受けた命の
本質的な何かに触れられる気がする。

死というものを可能性として認めながらも
その衝動はきっとこの先も抑えられない。

彼らはもちろん
死を望んでいたわけではない。
そしてとても悲しいことであることに違いはない。

でも街で過ごしていたって
日常の中でも死の可能性はつきまとう。
事故、事件、争い、病気。
望まない環境で望まない死を迎えるよりは
少なくとも彼らは望んだ環境で
それを迎えたといえるのかもしれない

あるいは。と。
慰め程度だがそう考える。

 

日々彼らの顔を思い出す。
早く命をまっとうした人間の
それが唯一の特権だろう。
残された多くの仲間や家族に
記憶として深く刻まれる。
何度も思い返す。

共に生き過ごした時間を。


昨日の夜遅くに東京につき
ごった返した雑多な居酒屋の奥で
一人席につき
遅めの夕食を取る。

味のしない数品をつまみ
ビールで流し込みながら

店内の客を俯瞰的に見回して
いろんな人生があるもんだ。
と、しみじみ感じる。

 

同じ地球上の同じ世界に生きているのに
それぞれは
それぞれの違う小さな関係性や欲求の世界で生き
バラバラに散らばっているように見えた。

同じ関係性や欲求、世界で生きた仲間の
”死” が持つ意味はとても大きく

衝撃を受けた僕の人生や価値観とは
また別の世界。
そんな不思議な感覚がした。

この刹那的な僕の短い人生を
より噛み締めて生きよう。
改めて。

突然消えちゃうと伝えられないから
今ここで生きる家族やみんなにも伝えたい。
愛しています。

 

死んだように生きるより
短くとも生きた人生を。

ありがとう。
友よ。安らかに。