漂流教室を読み直す① | 生きてる缶詰

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楳図かずお著 「漂流教室」(1972年連載開始)
 
もう40数年前のこと。
あほ小学生が商店街の本屋でこの単行本を立ち読みしていた。
気分が悪くなったらしく眩暈を起こし、電柱の下でしゃがみ込んでた。
商店街のスピーカーからはルベッツの「シュガー ベイビー ラブ」(1974)が聞こえていたのだけハッキリ覚えている。もう連載は終わってたのかも。
連載中読んでた記憶はあるし同時体験してたはずなんだけど、なにぶん当時は他にフォローすべきSF番組やアニメが乱立してたので追い切れず、一気に読もうとしてたんじゃなかろうか。
ペスト・盲腸・怪虫・関谷・内ゲバ、、、、数々のトラウマが心の内壁にべっとりへばり付き、とれる事が無いまま、そいつはあほのオッサンになって今ここにいる。
いまいちど読み直したら何かのパズルが解けそうな気がして購入してみた。1998年再編集版の小さいサイズ。
 
イメージ 1
 
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㊤今描いてる絵の一部抜粋  ちょっと彩色の方法を変えてみました。
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学校が「飛ぶ」前にこんなにたくさん母と翔との話が描いてある。
お話ってのは順序が大切だ。
当時は丁寧な心理描写がウザったくて読み飛ばしてた箇所が沢山あるのに気付いて驚く。未来カーじゃなく母への腕時計を買う場面とかも。
こういう地味な具体的描写の積み重ねがないと主人公への共感は生まれないって事を当時は解ってなかった。

なぜ大和小学校は時空移動したのか。
「漂流教室」を語る時、だれもがこの説明を欲する。ダイナマイトごときでタイムスリップするぐらいなら、砕石所では毎日石が未来へ飛んでしまい商売にならない。もちろん楳図さんは科学者じゃないんだから最終回まで仮説の提示のみだ。

僕ら子供達(当時)は漫画なんだから良いじゃないかとか、それを上回る人間劇がぁとか、なぜなんてどうでも良いのだ!理屈ばかりこねる大人にはなりたくないねェなんて言ってたもんだ。
しかし大人になってみると、、、「なぜ」と思ってしまう。思わなきゃいけないのだ。進化は義務だから。
先日読んだ「火星の人」などのSF小説は極力、地道な取材や裏づけで構築していってた。なんか解決方法は無かったものか、、、
 
のちに極限状況にてサイコパスとして目覚めた若原先生が、他の教師達を皆殺しにしてしまう無理展開もあるが、この事情は一応理解できる。
本作の肝は「子供達だけでいかにして乗り越えたか」を描くにあるからで。
 
 
給食室奪還戦はその良い例。
唯一食材がある給食室を占拠し籠城する、薄汚いおっさん関谷。
それまで状況に恐怖し震えて泣いてばかりだった幼い小学生達だったが、彼らは遂に決起する。
翔のリーダーシップのもと6年3組が団結して反撃作戦を開始。ここから「漂流教室」は本格的に始動するといっていい。この時点で200ページを超えている。
人質の愛川さんを奪回し、ひとつのパンと牛乳を奪い戻る翔たち。
食糧は今後供給される事は無い。皆が空腹だ。
しかし、共に時空移動に巻き込まれてしまった幼いユウちゃんにその貴重なパンを譲ろうという事で仲間達の意見は一致する。
無邪気に食べるユウちゃんを見守る皆が自然に涙を流してしまう。
「こぼしちゃだめでしょ」と幼い母性を見せて涙のまま笑顔で世話をする美川さん。
なんて美しい場面だろう。本作の中でも特に好きな場面だ。
痛ましくて切なくて、40数年前ここで泣いた記憶がある。
またか。
 
この時点で彼らの中には善意が溢れていた。最終巻での人肉喰いのあたりと読み比べれば、モラル度の変化も食糧事情と連動させ段階的に計算してたことが判る。
ちなみにこの美川さんも後に悲惨な最期を遂げる事となるのだが。
そして集団力で関谷をふんじばり遂に食糧奪還! 以降は少年誌らしい胸のすく展開に、、、、とはならない。
瓦を重ねるが如く、次から次に嫌な事件を重複して出してくるのが漂流教室の波状攻撃なのだからっ^^

                続く
 

※僕が脳内で勝手に流してるテーマソングは「だれかが風の中で」
一番ぴったりくると思うんですがw
そういえば「漂流教室」の連載開始と「木枯らし紋次郎」の放送開始は共に1972年でした。空気感とかが共通してるんですかね。