まず初めに、今日のブログは田中力磨個人の話がほとんどです。
今朝ある人と話をしていて、「今考えてることを残しておきたいな」と思いこれを書き始めています。
気持ちのまま書きたいのでどんな内容になるのかも自分でも分かりません。
ただブリッジの塾長の田中力磨という人間はこういうことを日々考えて生きてる人なんやな〜くらいのものです。
力磨はマザコン
まず大前提として、僕は「マザコン」だと自認しています。
誰かにそう言われたとかいうことは記憶していませんが自分で勝手にそう思っています。
ただこの前提がないとこの記事は成立しないような気がしたので最初に書いておこうと思いました。
マザコンという言葉はネガティブに使われることが多い言葉なのかなと思いますが僕はポジティブな意味で使います。
この想いって自分が親になってさらに強くなりました。
加えると妻の出産に立ち会って、です。
「リキの出産の時はな、彦根駅の階段を気をつけて気をつけて降りて病院に歩いていったんや。お母さん全然そんなこと思ってなかったのに病院に着いたら、『ほな田中さん、今日ですね!』っていうことになって出産になったんやけどまぁ難産難産😅お母さん出血多量で○にかけたけどリキは彦根の花火と同時にパーンって生まれたんや。(毎年8月1日は彦根の花火大会だった。そう考えると行きの彦根駅もかなり混んでいたんやろなぁ〜と思います)まぁでも生むって選択をして良かったなーって思ったなー。」
そんな母のことを僕が嫌いなわけがありません。
誰に言われるでもなく自分のことを「マザコンやと思う」と言うくらいに育ててくれた母を誇りに思っています。
そして生まれてきた力磨は超虚弱体質。
アレルギーというアレルギーは全て持っていましたし、「脳の発達が…」と検診で引っかかるほど大変な子だったそうです。
一方父は
僕は歳の離れた末っ子ということもあって、上の二人の兄に比べると父と一緒にいる時間は少なかったそうです。
でもそんなことは僕の生まれる前で知らんことやので僕には関係ないことです。
父は僕におおよそ「教育的」なことを与えようとして与える人ではなかったと思います。
その役目は母が担っていてくれていました(まぁそりゃー激しかったです笑笑)
ただよく仕事を手伝わせてくれました。
父は惣菜屋を営んでいたので土用の丑の日やお盆、クリスマスや年末なので繁忙期でその度に3人の息子たちが駆り出されていました。
ちびっこ力磨の仕事といえば店からかかってくる電話で何が足りなくなってきたかを父に伝えることや、惣菜のパック詰め。だし巻き用の卵を割るといった簡単なことでした。(パックに詰める時、身長が低いのでよく火傷をしました😅)
父の休みは当時平日だったので休日にどこかへ連れていってもらって〜…という遊びはあまりなかったように思いますが、仕事の合間にキャッチボールをしてもらっていたり、夜に小学校までのマラソンに連れていってもらっていました。
帰ってきたら家の隣の駐車場で父・次兄・僕とのガチの短距離走です。
兄も僕も足は遅くなかったはずなんですが、兄も僕も中学生になっても父に勝てなかったのは悔しいかったですね。父は運動神経に全振りしたような人です。
こんな父だったので本当に勉強とか部活のこととか進路のこととか、その他あらゆることを言われた記憶はないんです。
ですが、僕の一番の憧れは父であり知らぬ間にその生き方を追いかけるようになっていったのだと思います。
充分な愛情を受けた力磨はおかしく(?)なります
中学生くらいになると自分の生き方みたいなことを漠然と考えるようになってきました。
ただ末っ子力磨は甘ちゃんなので自分の確たる目標みたいなのがあまり無く、というかみんなが卒業文集に書くようなことが書けない子になっていました。
就きたい職業のようなものが全く無かったので小学卒業の時はなんとなくそれっぽいことを書いてその場を凌いでいたような気がします。
しかし中学生の反抗期力磨はそれを書くことすら拒むようになりました。
卒業文集に
「別に悪いことや法に触れることをしたいって言ってるわけじゃなくて自由に生きたい。そやのにそれを変だとか無理とか言われるのって変やと思う。」
みたいなことが書いてあります。黒すぎます。
でもこれを書いておいて良かったな〜とも思っています。
なぜなら今の僕もこの時の考えとなんら変わっていないからです。
「僕の芯みたいなんって中学生の頃にはもうできてたんや」
と確認できる良い材料になっています。
自分が考え決めて行動したことは批判されることはあったとしても否定されることはないと思っています。
結果、この黒力磨のまんま高校に入学し色んな学友・悪友から刺激を受け授業はサボりまくる高校生になります。
「なんでみんなが同じ方向向いて同じことを頭に入れなあかんのや?」
なんてことを考え、授業を抜け出し琵琶湖に自分の好きな本を読みにいったり、当時唯一クーラーがあった私立図書館に行ったりして自由奔放に過ごしていました。
今は変わっていますが当時通っていた高校の時間割は1限あたり65分授業だったんですが高校通算欠課時数は259時間でした(今確認しました)
なので3年間で280時間くらい授業に出ていなかったんですね。
このように進学校に通ってるくせに受験にはあまりに不向きな黒力磨だったので成績表は黒字ではなく赤字で数字が書かれていました。
まぁあの時代の公立進学校あるあるやと思います。
学校の進学実績よりも個人の自由を大切にしててくれはったなぁ〜とかなり良い方向に今も考えています。
自由の中に隠れているもの
こんな適当な高校生生活を送っていた僕でしたが、当時僕をよく見ていてくれた人がこんなことを書いていてくれました。
本当に僕のことをよく見ていてくれたんやなぁと思います。
別にこの友達に
「俺は将来日本を変える!!!」
「めっちゃ金稼ぐぞ!!!」
とか宣言していた訳でもなく、逆に先ほど書いていたように授業をサボっていた僕の方をよく見ていたはずです。
そんな友達が
「いつまでもアツく生きましょう。」
です。
非常に面白いと僕は思いましたし、僕のことをよく見ていてくれたんやなぁと思います。
まぁ今日の記事なので色々お許しをいただきたいのですが、進学校に通っていたにもかかわらず僕の志望校はあってないようなもので「正直自分の目標が達成できるならどこでもええわ〜」というものでした。
そりゃ通算20校も落ちますわな。
ここまで書いてきて、
「あ、ここまでが前振りになってるんか」
と今感じています😅
ほんまになんも考えずに書きたいことを書いている今日なのでお許しを。
実はまだタイトルも書いていません。
書き終わった時に、「あ〜、この内容ならこれかな〜」くらいで書こうと思っています。
ちなみに普段は逆の書き方をします
先ほども書きましたが僕の1番の憧れは父だったので父のような生活、家族を築きたいと根っこの部分で感じていたんだと思います。
ただそれが簡単なことではなく、いわゆる大企業に入ることよりも難しいことだとはハッキリ考えていました。
平たく書くと「目標は決まっているのにそれを実現させるための手段を見つけられていなかった」んです。
なのでその目標に対して無駄だと自分が感じる時間を過ごすことを極端に嫌っていたように思います。
手段を見つけるのに必死ですから。
なので高校卒業後からはずっと失敗の連続だったんじゃないかなぁ〜と思います。
でも僕の考えは違っていて、「目標を達成するために手段を探しているんやから全部過程やん。失敗ってなんやねん、腹立つわ〜」と考えていましたし、今でも僕の人生で失敗はないと思っています。
僕の人生で失敗があるとするならば、両親よりも先に逝くことです。
それ以外は失敗ではありません。
成功や失敗なんて自分で決められるもんです。
またそう思わせてくれている両親の偉大さをこれを書いた瞬間に感じました。
なんというか、僕はめっちゃ自分のことを大事にします。
自分のことっていうか自分の人生かな?
確実に一生に一回しか自分に与えられないものは大事にせなあかんやろって感じです。
自分の人生ですが、始まりは与えられていますからね。
それを大切にすることはとても大事なことやと思います。
今目の前にいる高校生の生徒にさっき聞きました。
「なぁなぁ。○○にとって俺ってさ、先生なのか△△のお父さんって感じなのかどっちの割合がでかい?」
「う〜ん、やっぱ△△のお父さんやなぁ〜」
なんこれ、激アツやん。