私は
エネルギーのマスターである
と、マリリン&トーマスから言われました。
そしてこの人生ではそれをさらに学んでいこうとしているのだとか。
そのように聞いた時はピンとこなかったけれど、言われてから時間が経ち、人生の年月も重ねてきて合点するこのごろです。
自分はエネルギー量が大きいと自任します。
簡単に言えば、強い人。
でも、だからといってそれを存分に使えているかというとそうでもない。
言ってみれば
ものすごい馬力のある真っ赤なスポーツカーという器を持っていながら、
運転の仕方が未熟で、狭い道を走ってスピードの調整ができずにあちらにぶつかりこちらにぶつかりしたり、高速道路に入った途端にエンストを起こす、とか…😅
エネルギーが大きいということは
それを上手く乗りこなすのにも熟練した技術がいるのです。
こんなことの繰り返しの人生だったなぁ、と最近になって気づきました🥰
気づくまでにどれだけの時間がかかるの?
と自分にツッコミを入れたい気分ですが、でもそれだけの長い年月を使って、様々なエネルギーの出し方のパターンを学んだことになります。
うまく行けば成功で
行かなければ失敗ではないのです。
全ての体験が成功です。
体験することそのものが生きることだから。
私のよくあるパターンとして
思いきって
とか
勇気を振り絞って
とか
頑張って
という意を決して行動することは割りとよくあります。
好き好んでそうしているのではなく、
そういう状況に追い込まれてしまうからそうせざるを得なくなるのです。
耐え難きを耐え
と、どこかで聞いたことのあるフレーズですが、そんな状況も長く体験してきました。
それもマリリン&トーマスから、私は
誰にも耐えられないようなことを耐えてきたと言われたので、自分でそう感じていることはあながち主観でもなさそうです。
でも、そうした
思いきって、勇気を振り絞って、頑張って行動したことで何を得たかというと、満身創痍となりました😅
現実にはなんとか見事に難局を乗りきりはしましたが、です。
全身傷だらけにして、エネルギーゼロ。
それ以後、全く動けなくなる…
そんな感じ…
また、耐え難きを耐える年月が長くなると、エンジンのかけ方自体が解らなくなります。
ずっと動いてはいけなかったのですから。
いざ、自由に動ける状況が訪れても、動かし方が分からなくなっているので動けません。
本当に極端な人生を歩んで来ました🤣🤣🤣
でも、これが私にしか体験できなかった唯一無二の宝の体験なんですね。
エネルギーの動き方のたくさんのパターンを学びました👌✨✨✨✨🥰
そして、
うまく行くパターン=効率よくエネルギーを動かせるパターン
も体験していることに気づきました。
それがどんなときかというと
ありのままの自然な嗅覚に委ねて力を抜いているときです。
明確な意図を持ちつつも
それに固執せずに
力を抜いて楽にしているときです
そんな時は楽に動けて、エネルギーの出し入れが自由にできています。
大きなエネルギーを楽に出入りさせるって、結構高度なことに取り組んできたのだな、と我ながら感心します🥰
自慢しているわけではないですよ。
大変なんです🤣🤣🤣
でも、大変さを体験して、大変さに取り組まないことで、楽に大きなエネルギーを動かすことを学んできたということになります🥰
色々とやってきて分かったこと
それは、
ゆるめること
の大切さです。
ゆるめること、
体をリラックスさせることで感覚が生まれます。
生まれるというより、なんらかの感覚があることに気づくということかな?
その感覚を信頼して進むとき
エネルギーを楽に動かせるということを掴みました!
信頼
は思考でできることではありません。
体がリラックスしていることが大切です。
頭の中で何回
大丈夫、大丈夫、大丈夫
と唱えて、大丈夫と信じ込ませようとしても無理です。
むしろ大丈夫ではないことが確信となり、緊張して体が固まります🤣🤣🤣
でも私はそれをずっとやってきました😅
そうやって、自分に大丈夫と信じ込ませ意を決して行動し、痛い目に遭うパターンを何回も何十回も、何百回も体験しました。
感覚に従って動こうとするとき、
当然、怖さを感じて体が固まりますよね。
それでも、感覚を信じて、体をゆるめて緊張を解し、委ねて動くこと。
その繰り返しで信頼が生まれてきます。
信頼とは体で感じる感覚なのですね~~~~🥰💕💖✨✨✨✨
最近、やっとそのことが分かってきました。
頭で理解してきたという意味ではなく、そのパターンの体験を重ねてくることで、体感してきたということです。
な~~んだ、こんな簡単なことだったの?
というお話しですが、たくさんの体験の末に得た信頼の感覚だからこそ、揺るぎないです。
自分の感覚を信じることが大切
と、よく言われますが、
そしてそれはその通りなのですが
それに従って動くことで初めて信頼が育まれていくのです。
それで、失敗したとしても(そう感じられる結果を得たとしても)、感覚が間違っていたわけではないのです。
自分の感覚を信じること
信頼するとはそういうことです。