さて、いよいよ弘法大師の御廟のお参りです。
広いお堂にお参りし、いったん外に出てお堂の裏を周り、地下に続く階段を降りました。
たくさんの灯篭が下がっていて、いちばん奥にお大師様にいちばん近い場所という祭壇がありました。
太くて長いお数珠と法具の三鈷が供えられていました。(撮影できないエリアなので写真がないのが残念です)
同行のお友達に促されるまま、一枚の硬貨をお賽銭として二人で持ち、そっとお賽銭箱に入れました。
あ、この時、私は硬貨を一枚も持っていなかったので、そこではお賽銭をいれなくてもいいかな、そこまでにたくさんしてきたから、と思っていたのです。
でも、お友達が
「理香ちゃん♪ここがいちばんお大師様に近いんだよ。このお賽銭を一緒に入れよう♪」
と提案してくれたのです。
そしてお大師様の今も生きていらっしゃると言われている祭壇の奥を見つめつつ手を合わせたら…
急に温かいものがこみ上げてきて~~~~~![](https://emoji.ameba.jp/img/user/s0/s0111012/4313.gif)
![](https://emoji.ameba.jp/img/user/s0/s0111012/4313.gif)
お大師様の御心に包まれました
そしてとっても素敵な言葉をいただきました
なんとおっしゃってくださったと思いますか?
「もうこれからは幸せに生きよ。
何もなすべきことはない。ただ衆生として生きよ♪ 」
でした。
修行の時代が長かった私。
苦しんでいる誰か
困っている誰か
そんな人たちの思いを引き受けて昇華することが自分の生きる道だと思い込んでいました。
それを無意識にやってしまっているとマリリン&トーマスにも言われました。
「衆生として」は
誰かの問題を背負うことで自分の生を紡ぐのではなく、
私の生を生きること
泣いたり笑ったり悲しんだり怒ったり喜んだり…
自分の人生に去来する全てのことをありのままに受け入れて、怖い時には怖いと叫び、嬉しい時には声高らかに笑う。
理性でコントロールすることなく、そこに全力で飛び込んでいくこと。
そのように受け取りました。
肉体を持って生きるということは聖人になることではなく、人生に去来するあらゆることを味わい体験すること。
もし、修行と言われるものがあるのなら、それらをいかに楽しんで味わえるかを追求していくこと、なのかも知れない
もう大丈夫だよ。
これからは楽しみなさい。
愛されて安らいで幸せに生きなさい。
そうお大師様からおっしゃっていただきました。
愛されて生きる
そう!
私は思いっきり愛されている
家族に
お友達に
先生に
関わり合う全ての人に
そして宇宙に✨
奥の院のお大師様のいちばん近いところまで参らせて手を合わさせていただいてよかった~~~
同行のお友達のおかげでした
ありがとう✨
奥の院の手前を流れる川沿いにいらっしゃいます。
6に続く
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