こんにちは☆

 

 熊野速玉大社で見た「熊野詣」と調べてみました。

 

 うーんと、正式には『熊野御幸』というらしく、宇多天皇の時代から玄輝門院の396年間に、上皇、女院、親王を合わせて23方、百何十名にも及ぶ皇室の御参詣があり、これを『熊野御幸』といって熊野三山史上に不滅の光彩を放っている(速玉大社説明版)、ということのようです。

 

 熊野御幸には陰陽師に日時を占定させて、心身の禊ぎを数日間行った後、出発されたそう。

 白河天皇の天永元年九月の御幸には、総人数814名、1日の食糧が16石、二斗八升、專馬185匹と「中右記」に記されていたとか。道順は決まっていて、京都から住吉、和泉など紀伊半島を海沿いに南下して田辺、中辺路、本宮から熊野川を下って速玉大社へ参拝ののち、那智山、雲取、本宮から往路コースを逆行して帰京、という、およそ20数日間にも及ぶ難行苦行の旅だったとか。

 

 まぁ、上げ膳据え膳で都にいたのが、御幸とはいえ宿泊地もなく野宿などして何日間も山の中を彷徨うのは、いくら天皇・上皇といえど苦痛以外のなにものでもなかったでしょうねぇ。しかも、世の中は貧困の時代だし、盗賊や何やらも出たでしょう。

 下働きの女房だって逃げたかもしれません。

 

 それでも『熊野御幸』というのは必要だったのでしょうかね。

 

 熊野信仰はのちの伊勢信仰にも大きく影響したのかもしれません。

 何か、屏風状になった歴代天皇の『熊野御幸』の表を撮っているのに、何故「メインスマホ(ブログなど入っている)」に入れなかったのか(入れたと思ったんだけど、連絡用のスマホから移し切れなかったらしい)

 

 やっぱり、熊野三山とは相性が悪いようです(雨とかは止んで、呼ばれはするのですけど、色々と忘れたり飛ばしたりしてるからなぁ……。京都の伏見稲荷さんと、仁和寺と同じ感じになっているような気がする(こっちは行こうにも呼ばれていないみたいで行けないのだけれど)……)

 

 何だろう、悪いことはしていないはずなのに(西を裏切ったからか、と弟くんは言っていたけれど、そもそも四国は西でも四国圏だからね? 関西は関係ないからね?)、どういうこっちゃ……?

 

 それとも、これは今必要ないから載せるなってことですかね?

 いずれ、許可が出るようであれば、その『熊野御幸』の歴代天皇の表を⤴したいと思っています。

 それまでしばしお待ちを……。