八石山ハイキング(上)善根から上八石まで | Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

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4月下旬にエルサルバドルから帰国しました。
今しばらくは、エルサルバドルの記事と
帰国後の記事(および読書ノート)を幾つか毎に交互に更新していきます。
なのでジャンルを「アラカン」に変更しました。

なおヘッダー画像は新潟県長岡市にて2020年11月に撮影。

今年のゴールデンウィーク。5月3日から8日まで、柏崎の実家に帰省しました。私自身は現在仕事をしていないので、いつでも実家に居ることができますが、娘はカレンダー通りに2日(月)と6日(金)には学校に行かなればなりません。そこで妻と娘は4日・5日・6日の三連休だけ私の実家に来て、私はそのまま週末まで留まることにしました。

予報によると、この間の天気は絶好この上もない。ならば一度は柏崎の山をハイキングしてこの時期の山野草を観察しなければ、と思うのは、近年の私の志向からして当然。米山・黒姫・八石(はちこく)の「刈羽三山(かりわさんざん)」のうち、米山だけは高校の時に学校行事で登っています。また、妻は「あまり高い山には登りたくない」と言います。娘はいつものことながら、ハイキングそのものに全く興味を示しません。

ということで、5月4日(水)、三山の中で最も標高が低く、かつネットで調べた情報ではハイキングコースがかなり整備されていると思われる八石山(はちこくさん)(標高518m)に、妻と二人で行くことにしました。

ところで、その翌日に訪れたソフィアセンター(柏崎市立図書館)で見つけた『郷土誌 中鯖石村誌』(柏崎郷土資料刊行会、1979復刻版、原本の例言は大正元年の日付)に、このような記述がありました。

 

越後名寄ニ八石山ノ草木ハ其色別シテ青ク外トハ格別ニ美シ云々 (p.11)

 

『越後名寄(えちごなよせ)』とは江戸中期の宝暦年間に出された書物です。そこに「八石山の草木はその色が特に青く、他の所と比べて格別の美しさである」と書かれているとのこと。

この件(くだり)の直前に、四季折々の魅力が書かれています。

 

山中櫻樹多ク春陽四月花爛漫タルノ時遠クヨリ之ヲ望ム恰モ雲烟ノ靉靆スルニ似タリ初夏ノ深緑又掬スヘク秋ノ紅葉大ニ異彩アリ若シ夫レ積雪ノ候ニ至ランカ皚々タル銀岳ハ山麓江村ノ美景ト相俟チテ更ニ一段ノ風趣ヲ加ヘ見ルモノヲシテ恍然画中ノ人タラシメズンバ止マザラントス (p.11)

 

山中には桜の木が多く、春は4月、花爛漫(らんまん)の時に遠くから望めば、まるで雲や霞(かすみ)がもくもく湧いているようである。初夏の深緑も取り上げるに値する。秋の紅葉は大いに異彩を放っている。これが積雪の時期に至っては、一面銀世界の山が麓(ふもと)の川や村の美景とあいまって、更に一段の趣(おもむき)を加え、その景色を見る者は見とれてうっとりし、あたかも自分が絵画の中にいるかのような気分になってやまない。

……とまあ、漢文調の気合の入った文章でベタ褒めしていますが、それにしても私たちの行った初夏の記述が、他の季節と比べてやけにあっさりしていますね。大して魅力的な時期ではないのでしょうか。

いえいえ、そんなことはありません。以下に、そして続く記事にてお見せしていくように、深緑のみならず、眺望も、そして例によって山野草も、様々に愉しむことができました。何よりも、温暖な陽気の日に清々(すがすが)しい青天白日の中、歩くことそのものが楽しい。

さて、当日、私たちは早起きして、7時20分柏崎駅発岡野町車庫行きの路線バスに乗って、「鯖石校前」で降りたのが7時45分。そこから登山口の一つがある善根(ぜごん)に向かって歩きます。

 

最初に、今回のハイキングで歩いたルートをお見せしましょう。

 

 

善根から八石城址、そして八石山の3つのピークを南から縦断し、南条(みなみじょう)の追田(おおた)集落に降り、最後はJR北条駅から鉄道で戻ります。

 

 

こちらがバスを降りて歩き始めた辺りから見た八石山。ピークが3つ見えますね。右から上八石(かみはちこく)、中八石(なかはちこく)、下八石(しもはちこく)です。下八石は南条八石(みなみじょうはちこく)とも呼ばれています。上に書いた標高は最高峰の中八石の高さです。

山は私たちの東に位置しています。なので朝日の逆光のためもあって、その色、「別シテ青ク」ですなあ。

 

 

南を向くと、鯖石川(さばいしがわ)沿いの田んぼ、数々の里山の遠方に、方角的に恐らく苗場山だと思うのですが、堂々たる雪山が顔を出していました。まさに雪国の、田舎の春の景色ですね。

 

 

善根と言えば――いや「八石山の麓と言えば」と言っていいでしょう――不動滝(ふどうたき)が知られています。落差は72mとのこと。拙ブログとしては珍しく縦長の写真でお見せします。

実に清涼感のある、しかも神々(こうごう)しい感じのする滝です。

 

 

なんてったって、お不動様を祀(まつ)ってある滝ですからね。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!」(不動明王の真言)

 

 

こんな感じなので、近づくとマイナスイオンのミストを浴びまくりです(注意:拙ブログはマイナスイオンの健康に対する効果を主張するものでは全くありません)。

 

 

で、この滝に行く遊歩道の入口に、八石山の登山口(の一つ)があるわけです。この時、手前の駐車場には車が10台くらい停まっていました。滝や遊歩道では他の人と会ったりすれ違ったりしませんでしたし(遊歩道に入る時に2人、出る時に1人とすれ違いましたが)、他にも幾つか登山口のあることを考えると、山は多くのハイカーで賑わっていそうです(実際、賑わっていました)。

写真のストックは自由に使って、降りたところの登山口で返していいことになっていましたが、缶に貼られた説明書きに私たちが出ようと思っている登山口の名前が含まれているのかどうかよく分からなかったので、使わないことにしました。

実際には、下山した追田口(南条口とも呼ばれる)が最も整備されていて、ストック返却缶もありました。

さて、善根口から登るといきなり急な登りになり、一気に300mくらい登ることになります。手で掴んで登るためのロープの張られている個所も幾つかあります。しかし、危険なくらいに急な所はありません。私たちは頻繁に立ち止まって花の写真を撮りましたから、コース案内では1時間で八石城址に着くところ、1時間半かけてそこまで辿(たど)り着きました。なので、さほどタフな登りにはなりませんでした。

ペースがゆっくりですから、下山までに何人もの人に抜かれましたが、他の人を抜いたことはありませんでした。所要時間が4時間半程度のコースを、実に7時間くらいかけて歩いたことになります。

 

 

これは、最初の急な登りの区間でも、まだこうして写真を撮る余裕のある緩やかな箇所。

 

 

善根口を9時半に入って、第一のポイントとも言える八石城址に着いたのが11時。尾根の突き出たところが平らになっていて、そこにお城が立っていたわけです。今は石碑と四阿(あずまや)があります。

キツツキが木の幹に留まって木をつついていましたが、残念ながら写真を撮ることはできませんでした。

一人のオジサンが後ろからやって来て、「ここが上八石ですか?」と聞きます。「いえ、八石城址です。上八石は更に30分先です」と私が言うと、少々残念そうな顔を見せた後で、「どちらからですか?」と聞きます。「長岡からです」と答えると、「そうですか。私もそうなんですよ」と言って、「では失礼してお先に」と言ってそのまま進んで行きました。「でも実家が柏崎なんです」と追加したのが耳に入ったかどうか。

 

 

花の終わったカタクリが一面にびっしりと敷き詰められていました。四阿のテーブルに来訪者がコメントを自由に書くノートが置いてあって、ページを捲(めく)ると、4月初めから20日頃までカタクリの花が満開だったことが分かります。

さぞ見事な、感動的な光景だったことでしょう。私は頭の中で、上の写真の光景に紫色の花々を重ねたのでした。

でも、この先の少々進んだ所で、まだ綺麗に咲いているカタクリの一群がありました。後の記事で写真をお見せします。

記事が長くなってきましたが、八石城の歴史について簡単に触れさせてください。

柏崎市のホームページに収録されている「八石登山道(柏崎市側)コース資料・情報」 にはこう書かれています。

 

八石城は、鎌倉幕府創設に尽力した大江広元(おおえのひろもと)の子孫である越後毛利(もうり)氏の流れを汲む八石毛利浄広(きよひろ)・周広(ちかひろ)親子の居城と言われています。

八石毛利氏は、先祖を共にする北条(きたじょう)城の北条毛利丹後守(たんごのかみ)の策略により暗殺・滅亡させられたという「落城秘話」が残っており、4月18日は落城日にあたり、この日に登山すると障りがあることから「八石登山禁止の日」として伝承されてきました。

 

更に上述の『郷土誌 中鯖石村誌』によると、浄広は入浴中に暗殺。当時与板城主であった周広がそれを聞き従者を連れて向かうと、丹後守は守りを固めており、勝ち目はないと悟った彼はやむなく引き返して杉の木の下で自害したとの話です。時に天正年間、1574年とも1578年とも言われているそうです。上杉謙信の死去が1578年ですから、ちょうどその頃の出来事です。

 

 

城址から30分余り。上八石 (494.4m) の山頂に着きました。しかしここには三角点の標石があるだけで、「上八石」の文字はどこにも見られません。標石も相当部分が土に埋もれて、頭しか出ていません。

続きは次回の記事にて。