總持寺の涅槃会攝心(6)提唱 | Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

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エルサルバドルに単身赴任中。
気候がいいので日本よりよほど健康的な生活を送っています。
ドライブ旅行をぼちぼちしていますが、
この国で最も注意しなければならないのは交通事故。
今や治安以上に大きなリスクです。

なおヘッダーは2020年に新潟県長岡市にて撮影。

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『広辞苑』によると、提唱とは「禅宗で、教えの根本を提示して説法すること」。今回の攝心における提唱は、つまりは老師による講義のことです。

 

攝心の3日間を通して、午前中には愛知県新城市の東泉寺から後堂老師としていらしている前川睦生師が『大智禅師偈頌(だいちぜんじげじゅ)』から幾つかの漢詩の講釈を、午後には秋田県大館市、洞雲寺から単堂老師としていらしている柴田康裕師が『常濟大師(じょうさいだいし)全集』にある瑩山和尚(けいざんおしょう)法語(常濟大師とは瑩山禅師のこと)の講釈を、それぞれ1時間ずつ(つまり3日間で3時間ずつ)行ってくださいました。これらのセッションがなかなか良かった。他の参禅者の皆さんも、興味津々で耳を傾けていらっしゃる様子(ただ、ここに書いてしまっていいのかどうか、講義が始まって10分も経たないうちに、何人もの雲水さんたちが船を漕ぎ始めましたが)。

 

『偈頌』は七言絶句ですし、法語は漢文を書き下したような文体の古文がテキストでしたから、ほとんどの修行僧や他の参禅者と同様、漢文の素養がほとんどない私にとっては難解極まりないのですが、老師の方々は懇切丁寧に、分かりやすく解説してくださいました(それでもよく理解できないところもありましたが)。途中から私は電子辞書を机上に置いて聴講しました。頻繁に使いましたが、辞書に載っていない語彙も多い。

 

前川老師は、典型的な禅僧の口調というか、厳格さが感じられる、やや堅苦しい話し振り。しかしよく聞いていると現代の世相や科学の話題も挿入したりして、今風の、なかなか興味深い内容でした。

 

全ての現象は働きである、その働きを人格化したものが毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)であるという話のところで、「物理学でも全ての現象はエネルギーの表われであることが知られている。粒子はエネルギーの塊である」とおっしゃった時には、高校で物理を教えていた私としては、専門外の老師が誤ったことを言ってはいまいかと耳をそばだてて聞いていました。後で参禅者の宿泊室でSaさんに「揚げ足を取ってやろうかと思って聞いていましたよ」と、少し意地悪げに言うと、Hさんが「正しいことを言っていましたか?」と。「正確ではない部分はありましたが、基本的には間違ったことは言っていませんでしたね」と得意げに答えてしまった私は増上慢です。まだまだ、です。

 

片や柴田老師は、「これ、これは重要ですよ、よく出てきます。覚えておいてください」と、あたかも(一流ではない)予備校講師のような口調でしたので、教員であった私には、正直言うとやや安っぽく聞こえましたが、若い雲水さんたちが勉強するには、このようにポイントを強調する教え方は効果的でしょう。

 

以下、本文にあった、あるいは講義で説明に使われた言葉の中で、自分で復習しておきたいと思う印象的だったものを幾つか挙げておきます。まずは前川老師の講釈から。

 

無情説法有情聽「無情の説法、有情(うじょう)聴く」。『大智禅師偈頌』の第19句より。無情とは心のないもの、つまり山水草木や石ころなどのこと。説法とは例えば個人の逸話に基づく説教のことではなく(それは説法のごく一部)、自然の法則である。すなわち性相(しょうそう)(広辞苑によると「事物の本性(性)と現象的性質(相)」)である。風が吹くのも、陽が昇るのも説法である。そしてこの無情説法とは、諸仏の説法のことである、と『正法眼蔵』にある(なお「無情説法」と題した巻があります)。しかし有情である衆生、つまり人間や動物もこの説法の一部を聞くことができる。これが、この句の言っていること。

 

分明遍界不遮藏「分明(ぶんみょう)に遍界(へんかい)遮蔵(しゃぞう)せず」。第186句より。分明とは、はっきりしていること。遍界は全世界。遮蔵は包み隠して内に収めていること。ここでは道元禅師の姿(教え)はいつでもどこでも丸出しになっている、と言う意味。ただし、それが見えるのは、仏道修行をしている時のみである。

 

また、老師の学者批判が印象に残っています。曰く、宗教学者は「絶対の信」などと言うが、そんなものはなく、すべては「空」である。「信」ならば信じる者と信じられるものがあるが、そのような区別などない。このような学者の説明する宗教には「行」がない。道元の宗教は「行」の宗教である。

 

ついで、柴田老師の講釈より。

 

無念無相一念不生と云は、念をやめ、妄想をのぞいて、木石の如くなるを、無念無想と云には非ず。萬境に逢う時に、諸縁境界の處に留まらざる處を、無念と云也。善にも留まらず、思慮分別の處にも留まらず、又、留まらざる處にも、こゝぞと取定めず、是の如くなる處を、暫くかりに無相無念と云也。

 

(意訳)無念無想にして一念を生ぜずというのは、あれこれと考えることを止め、妄想を除いて、木や石のようになることではなくして、あらゆる境遇・境涯にあっても、そこに留まることがないことを、無念と言うのである。善にも留まらず、色々な思い計らいのところにも留まらず、また、留まらないところにも留まらずに、ここという決まったところに固執してしまわない。このような状態を、しばらく仮に無念無想と言うのである。

 

妄を起して、妄を止るは、両共(ふたつながら)に妄なり。妄念若し起らば、妄と知れば忘るゝ也。あながちに、妄とたゝかふ事有るべからず。亦ゆるして置く事すべからず。妄を失んと、力を起してたゝかへば、還(かえっ)て念と成て悪き也。故に古人の曰く、心を以て心を忘すれば、心還て有となる。只形もなく、妄念起る時、妄とだに知れば失(うす)るなり。根なくして起る故に。

 

(意訳)迷いの思いを起こすことも、迷いの思いを止めようとするのも、二つながら迷いである。もし迷いの思いが起きたら、それを迷いの思いだと知れば、迷いも忘れてしまうものだ。強いて迷いの思いと戦うことがあってはならない。また、それに引きずり回されてはならない。迷いの思いを消そうと力んで戦えば、還ってそれにとらわれてしまうことになる。

 

したがって、古の道を得た人がおっしゃるには、心をもって、心を忘れようとすれば、還って心にとらわれてしまうと。ただ形にとらわれることなく、迷いの思いが起きたならば、これが迷いの思いだと自覚すれば、それは消え去ってしまう。もともと根っこから生えてきたような固定的実態ではないからである。

 

この坐禅中の調心の仕方について、老師は「覚触」という言葉に言及します。

 

覚触(かくそく)。瑩山禅師の言葉とのこと。老師によると、ある想念が湧き、それに「あっ、いかん」と気付いて、気付くとそれが消える。そしてまた別の想念が湧き、またそれに気付いて、それによって消えていく。私(=柴田老師)の師の表現では、「取って返す」こと。想念が湧くのは自然なことであるから、それに囚われないこと。引っ張られないこと。ひきずられかかって、「あっ、いかん」、この繰り返し。無心になって悟った状態になることではない。

 

また、老師は瑩山和尚法話の講釈を始める前に、道元禅師の『正法眼蔵』「行持(上)」からの一節を補足資料として配り、解説されました。その中の、特に次の言葉が講釈の主題に関係しているのでしょう。

 

随流去(ずいりゅうこ)「流れに随(したが)ひて去(ゆ)くべし」。文脈としては、大梅山で道に迷った一人の僧が法常禅師の草庵にたどり着いて、山から出る道を尋ねた時の禅師の答えなのですが、山から出る道と出離の道をかけたものだそうです。従って「成り行きに任せて歩いて行けば山を出られる」という表面上の意味の他に、「何事も流れるのに身を委ねていれば煩悩から離れられる」という意味も持っていることになります。

 

坐禅も然り。雑念が浮かんでも、そのまま放っておいて、雑念が流れていくままにしておく。これがポイント。無理に追い払おうとすると、それがまた妄念になる。

 

曹洞禅についての理解をより深めるために、いつか『正法眼蔵』をしっかりと読むべきでしょうね。私の持っている講談社学術文庫版では8冊の長大な書物ですが。

 

(写真は仏殿)