10月17日の日記 | Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

エルサルバドルに単身赴任中。
気候がいいので日本よりよほど健康的な生活を送っています。
ドライブ旅行をぼちぼちしていますが、
この国で最も注意しなければならないのは交通事故。
今や治安以上に大きなリスクです。

なおヘッダーは2020年に新潟県長岡市にて撮影。

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昨日は母の外来受診で病院に付き添って、例のごとくその後の買い物にも付き合って(母は疲れていたため、結局ほとんど買い物はせずに、二三の用事を私が代わりにしてあげただけだったが)、それで一日が終わってしまったに近い。

 

夜中に、教員をしているという夢を見る。なぜか辞めたはずの学校を非常勤でやっていることになっており、しかも大半の授業を私がサボって(すなわち職務を放棄して)しまったことになっている。自分の科目の定期試験がいつだか知ることができず、何日まに試験問題を作成したらいいか(あるいは既に試験時間は終わってしまっているのか)分からなくて途方に暮れる。そこに先輩教員が、「あれっ、授業やってないじゃない?!」と私を追及する。

 

……なんか、大半の時間が自分の自由になっている今年になって、そんな、かつての仕事の制約に縛られ、かつ職務を果たしていない自分という夢を時々見るなんて。覚えている分だけで「時々」なのだから、多分、実際にはしばしば見ているのだろう。わが潜在意識は、わが意識に何を言わんとしているのか。

 

明け方目覚めてまだ布団の中にいて、ふと、最近は不健康な生活をしているように思え(少なくとも体重は6月末に四国遍路から戻って一気にリバウンドが起こっている)、俄(にわか)に運動がしたくなる。そこで6時半に起きると、わずかな小雨がパラつく中(しかし傘が必要なほどではない)、近くの土手を軽く1キロ走る。ジョギングするのは1年振り以上だ。運動自体、四国から戻ってほとんどしていなかった。

 

……が、この運動、継続するのか?

 

今日はこれといって予定が何もない。本を読み、読書ノートまとめを進め、そして物思いをする一日にしよう。優雅な生活と言われても返す言葉はない。

 

午前中は温泉に。いつもの麻生の湯。水曜日の本日は無料シャトルバスが出ているので、いつものように利用。シャトルバスに乗るとポイントカードのスタンプが2つもらえる。初めてタオルを持参して「タオルなしセット」を利用。「タオルセット」が通常料金で700円のところ、タオルなしだと100円引き、更にスタンプは15個集まると2人無料になるので、これらを料金に換算すると、今回は実質520円ということになる。かなり安上がりだ。

 

シャトルバスの出る長岡駅東口の近くにエイシン日本語学校の新築ビルがあるが、ずっと生徒が来ている気配がない。ネットで調べたら、来年4月開校予定とのこと。

 

麻生の湯では、温泉延べ10分以上+サウナ延べ30分以上という最近のパターンを踏襲。結局サウナには延べ45分入って、体重1.35kg減。しかしこれは水分発散のためなので、すぐに戻るだろう。サウナが長過ぎたか、少し脱力感がある。

 

温泉の後は長岡駅東口前のドトール・コーヒーで読書をしながら昼食のサンドウィッチとアイスコーヒー。その後、市立中央図書館の自習室で読書ノート整理と読書。

 

読書ノートは、4年前に読んだ本についてのコメントと抜き書きをノートに書いている。そこまでノート整理が遅れに遅れてしまったのだが、忘れた頃になって一部を読み返したりするので、これはこれで意味もあろう。コメントについても、4年前の自分と変化があったかどうかを確認できる。

 

本日まとめたのは堀江敏幸『河岸忘日抄』(抜き書きはまだ途中)。下は最初の抜き書き。

自分はこう変わった、こんなふうに成長した、と第三者のまえで堂々と口にできる人々が、彼にはひどくうらやましい。いや、正直に言えば、疑わしいとさえ感じることがある。彼のなかにはだらだらと切れ目なくつづく日常があるだけで、日々の流れの幅がひろくなったりせまくなったり、あるいは勢いが増したり減じたりすることはあっても、そのあいだの変化を明確に言葉にすることなんてとてもできないのだ。(p.13)

言語化できる明確な新しいものや、明確な進歩を追求する姿勢に対するアンチテーゼ。人は、意識していなくとも日々変化しているし、更に言えば、変化していないこと、日々の移ろいを純粋に愉しむのも、また一つではないのか。

 

すぐ前に「4年前の自分と変化があったかどうか」なんて思っていたが、そんな自分に、即座に反省を促す文章。

 

読んでいる本は、ちきりん『未来の働き方を考えよう』。もうすぐ読了。人生設計についての彼女の考え方に、ほぼ同意する。というか、私はこの本が出るずっと前に、更に言うと、彼女が提唱するような人生転換を彼女自身がする前に既に、私自身がこの本に書かれているような生き方を歩み始めている。従って、本書は私の生き方の正当性を裏付けてくれたとも言えるし、個人的には本書は読むに及ばなかったとも言える。

 

彼女との見解の違いは、読了まで少しを残したここまでのところ、主に3点。

 

一つ。彼女は、読者に人生転換を求める大きな根拠として、今後の日本社会の変化を最初の2章もかけて力説しているが、私は――彼女ほど具体的に考えているわけでもないし、彼女ほどしっかりとした論拠を持っているわけでもないが――日本の近未来は、彼女の予想通りの期間で予想通りの状況にはならないであろう、と思っていること。理由は、多くの近未来予想が外れる時にそうであるように、このままの世の中の動向が直線的に延長されることはないだろう、何かしら状況を変えることが起こるろう、と、単に直感的に漠然と思っているから。

 

次。彼女は、自身の提唱する生き方ができるか否かは能力の問題ではないと言っている。確かに、仕事の多くは、特別な技量や資質を必要としないものであろう。しかし、それがどんなものであるにせよ、何か新しいことを始めるには何らかの技術や知識が必要になる。それを習得することができる能力を持つ人間は、彼女が想定しているよりもずっと少ないのでは、と思う(一方で私は、多くの人が自分の能力を過小評価しているというか、自分の能力について過剰に不安に思っているとも思うが)。それに、生き方を拘束するすべての囚われから放たれて、そのような柔軟な発想ができることも、一つの能力だと思う。

 

最後。彼女は最終章で、今の若者に「やりたいことを明確にせよ」と声高に言っているが、そのやりたいことを明確にできないのが今の若者の不幸なのではないのか、と私は思っていること。昔の人は、世間の常識的な人生という敷かれた線の上を突っ走っていて、職の選択で悩む余裕も必要もなかったから、ある意味、幸せだったとも言える。仕事のしかたを選択できる自由度が大きくなった現代だから逆に、やりたいことが見つからなければ不幸であるかのような幻想が若者たちに広がり、それで悩むということが起こっているとは考えられまいか。言ってしまえば、自由に選択できるから、選択しなければならないという呪縛――恐らくサルトルが指摘するような実存的な呪縛――を受けている、と。悩めるだけ幸せだ、とも言えるかもしれないが、それはオヤジ、オバサンの理屈だろう。

 

けれども、もし私の推察が当たっているとして、今の若者には同情するが、少なくとも私自身は――自分のやりたいことが明確になっているのかどうか甚だ疑わしいが――40歳の時に自己都合で勝手に教職を辞め、その後の仕事人生を自分の好きなように歩んでいる。まさにこの本の主張を地で行っているわけなので、悩める若者がたくさんいても、まあ、個人的には私の関知するところではない(私の経験が益する限りなら、進路相談には乗ってあげてもいいけど)。

 

それと、ついでに書くと――これは彼女と見解が違うということではないが――彼女は、日本の社会保障制度が今後もずっと盤石で安定しているという前提で議論していることに注意しなければなるまい。多くの人は、ここに不安を持っているから一歩を踏み出せないでいるのだ。

 

……ってなことを考える。

 

夕方、帰宅。飯食って、酒飲んで、ブログの記事をアップして、多分これから寝る。

 

(写真は麻生の湯の敷地に咲いていたコスモス)