2008-12 生きる意味 | Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

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エルサルバドルに単身赴任中。
気候がいいので日本よりよほど健康的な生活を送っています。
ドライブ旅行をぼちぼちしていますが、
この国で最も注意しなければならないのは交通事故。
今や治安以上に大きなリスクです。

なおヘッダーは2020年に新潟県長岡市にて撮影。

上田紀行、岩波新書、2005、8/29-9/21、印象度A×

 

渡米直前に見つけて買い、8月の家族旅行の時に読み始めました。タイトルの与える印象としては、哲学的、宗教的、でなければ心理学的な本ではないかと思いましたが、実際には社会学に近いです。著者が文化人類学者ということで、考察の切り口が観念的、概念的にならないで、具体的な日本の社会現象や出来事に立脚して議論を展開しています。尤も、観念的な文化人類学者もいるでしょうが。

 

本書は前半で現代の日本人が「生きる意味」を失っている状況を描写してその構図を浮き彫りにし、後半でそれを打開する新しい道を示唆しています。本書の主旨は最後の章の初めの2段落に端的に要約されています。
「人の目」と「効率性」によってがんじがらめになって、私たち自身の「生きる意味」が見失われているところに私たちの時代の病はある。それ故、いま私たちに求められているのは、私たちひとりひとりの「生きる意味」の自立である。しかし、一見私たちの自立をもたらすように見える、新自由主義的なグローバリズムは私たちをますます効率性と他人からの評価に縛りつけ、私たちの「生きる意味の再構築」をもたらすものではない。
 
いまこそ、経済成長や数字に表わされる成長といった、私たちや私たちの社会を外から量的に見る見方だけではなく、「生きる意味の成長」といった人生の質に関わる成長を考えるべきときではないか。そうした「内的成長」をもたらす社会への転換が求められているのである。それは私たちが自分自身の「喜び」と「苦悩」に向かい合うことから始まる。そして、それは私たちの間のコミュニケーションのあり方の転換でもある。「内的成長」を育む様々なグループが生まれ、さらに仕事、学校、家庭といった場が私たちの「内的成長」の場へと転換していく。(pp. 204-205)
これだけを読むとかなり抽象的に見えますが、上述したように、著者はいろいろと具体例を持ち出して、それらの意味付けを分かりやすく説明しているので、本書を読めば、決して難解ではないことが分かります。

 

今の私自身は、恐らく著者がターゲットとしているような価値喪失の状態にはないと思います。しかし一人の悩める人間として、「生きる意味」を求める諸活動の話に、どこか救われる思いがしました。

 

本の帯には「2006年度大学入試出題 No.1!」とあります。内容はもちろん、文章そのものが卓越していることも世の中で注目されたことがうかがえます。議論の展開は系統立っており、適度に反復、要約しているので、読者にフレンドリーな文章になっています。

 

このような本をまだまだたくさん読みたいところですが、今はそれが勉強からの逃避になるといけないので、控えるとします。せっかく留学しているので...。