革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -3ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 誰を愛すか? 

 難題のような、決まっていることのような、問いと同じだ。

 心に問えば、浮かんでくる顔は決まっている。

「また始めるのですね?」

 彼の人は、そう言ってくれるだろうか? 

 ここに一人の来客がある。ずっと、放置していたのに、来客がある。何でもないことを再び始めようと思う。心に浮かぶ景色、をそのまま、映していく。僕の旅、みたいなものだ。

 無益な旅、と言われた。それはそうかもしれない。綴るに、意味はどれだけあるだろう? どこで、誰が見ていてくれるだろう? それも、大業はやめる。素直な、素朴な、鉄、剥き出しの鉄のままだ。錆びないうちに、使っていこう、という話でしかない。それでも、繋がりが生まれるまで、僕は、僕でいる。暇ばかりの人生。他人に感動して、神にケチをつけて、自分に呆れる。

 欲深い生き物は、もっと、感動を欲する。

「君の与えた感動は、どれぐらいあるのだい?」

 それなりにあった。知っている人は、知っている。けれど、もう、止まってしまった、と言っても差し支えない。走れメロス。とにかく、走るんだ。

 ここは、検討の園だ。

 さて、ページは再びめくられ始めた。君の音に通じる音をいくら、発見できるだろう。きっと、まったく無益、と言うことはないはずだ。そう思って、文にあたる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これを軸にしている。世界に対して、社会に対して、人生に対して、言いたいことがあるから、文章を書いている。言いたいいいたいことがなくなれば、文章は書けない。だが、書くことは、無限にあるみたいに、尽きることがない。

 つまり、世界は、言いたいことばかりの世界だ。人がいる。人が作った。人が関係なく動き出す社会が、人の世界にある。人は文句を言う。不満が溜まるのだろう。それを見て、言いたいことができる。溢れるほどだ。決して、底つくことはない。

 人は面白い、と同時に、悲しい。悔しさが、あるだろう。歓喜もあっただろう。ここは、喜びの星だ。嘆きの星でもある。その狭間で、揺れ動くだけ揺れ動くんだ。言いたいことが、尽きるなんてないだろう。すべてが、幸福に鎮まっても、まだ、あるだろう。

 だから、文章家を続けられる。飽きることもなく、呆れることもなく、心に問いかけ、言葉が、生まれてくる。人がいる、とは、奇跡だから、二人いるだけでも、話したいことは生まれる。

 ただ、文章にして売るなら、価値のある言葉でなければならない。それを、幾万ある言いたいことの中から、精査、選別していくだけだ。世界は、尽きることがないで、統一されている。

 言いたいことがなくなるときは、情熱がなくなった時かもしれない。言いたいこと自体がなくなると言うより、言いたい自分がなくなる、と言う感じだ。経験しないでもない。けれど、また、熱は、高まった。前ほど、強くではないが、静かに燃えている。

 そのうち、また、話し出すだろう。世界は、よくなるか? そればかりを探る、生き物だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東京ヤクルトスワローズを応援している。もちろん、面白いからだ。けれど、世間は違う。世間は、読売ジャイアンツだ。もしくは、野球はオワコン、だ。

 昨日、地上波で中継があった。数字はどんなものだろう? ただ、内容は、フジサンケイグループのヤクルトに反して、ジャイアンツ推しの番組だった。

 僕は、いつか、スワローズが、球界一の人気球団になる夢を見ている。

 何も不可能なことじゃない。巨人と、ヤクルトの違いなんて、あるわけないのだから。歴史か? むしろ、新時代の子は、新しいものを好む。革命的な話に耳を傾ける。可能性はある。ただ、どう、表現するか? の問題であり、やる側のやる気、機知、の問題だ。

 当然、それは、全球団に言える。ただ、ヤクルトに関しては、曲がりなりにも東京の球団だ。しかも、都心のど真ん中に球場がある。若者の街、とも言える。チームカラーに反している、とも言えるだろう。新神宮が改築される、と言う話がある。二十七年だったのが、伸びたようだ。これもいたい、かもしれない。都心のど真ん中に、スポーツスタジアムがあり、その象徴的存在として、ボールパークができる。それこそ、巨人さえ羨む、環境、立地条件だろう。

 だから、伝統、と言う言葉を省くなら、スワローズが、中心になりうる、条件、は他の球団より、可能性が高い、と言える。

 要は、ブームの作り方、だろう。ムーブメントの起こし方、だろう。それに、どれだけ、ヤクルト、と言う企業が、気づいているか? だ。望めば、フジテレビも持っているのだ。どれだけでも、動かない山を動かせる能力はある。備わっている。それを使わないのは、損であり、バカだ、と言われる行為かもしれない。ここ掘れワンワンは、聞いていない。

 それには、魅力的な選手が当然必要になるが、テレビ局と一体になって、始動するのが一番だろう。村上、奥川、と球界のスターはいる。

 確かに弱いが、惹きつける魅力のある野球をやるから、僕は惹き付けられている。目指さなきゃ始まらないし、変えようとしない限り、変わらないままだ。十二球団中、十番目か、それ以下の人気のチーム、どうやって、山を登っていこうか? これこそが、面白いだ、だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 野球観戦のライブ実況のYouTubeを見ながら、野球を見ている。東京ヤクルトスワローズのファンの人で、そう言うのをやっている人が、有名人、含め、ちらほらいる。と言っても、数少なく、登録者数も微々たるものだが。おそらく、気づいている人もそうは多くないのではないか? と思う。

 けれど、寂しがり屋の僕は、誰かと見る、というその感覚が、恋しくなってきた。それで、拝見させてもらっている。

 そこでも、色々、ぶつかり合いもあるようだが、さすがに有名人の人のところでは、みんな言葉を選んでいるようだ。

 試合がつまらなくなったところでも、何かの刺激があるし、試合が、劇的な展開になれば、盛り上がりも、本当のファンだけに、ひとしおのものになる。この前の、ライアンの、ノーヒットノーランの試合も、見ていた。思わず、何度も、見直してしまう。

 もっと、この分野が、一般的になれば、と思う。僕は話下手だから、あれだが、僕もやろうかな? と考えるほどだ。それぐらい、熱を込めたい分野だ。僕は、東京ヤクルトスワローズを、主人公チームと言い、後には、巨人をしのぐ、球界随一の人気チームになってほしい、と思っている。もちろん、夢物語だ。僕の夢物語好きは、今に始まったことではない。でも、FAで、好き放題選手を取りまくる旧式のチームよりは、愛着を持てる。

 やはり、野球は、自前で、育てた選手たちでやらない、と。巨人にも、その力がある、と思うのだが、やはり、FAにすぐ手を出すやり方は、やめられないようだ。FAがなくて、それでも、勝ち続けることを宿命づけられた選手たちの活躍は、見ていて、涙が出るほどのものだったのだが。

 そんな物語性がなくなったので、巨人の人気も落ちた。当然の、結果だ。地上波で、巨人戦を見よう、なんて、気持ちになるはずがない。それで、僕は、ヤクルトに、期待を移したのだ。なぜか、ヤクルトなら、今なら、FAで選手を取っても、許せる気がするが。不思議なものだ。

 まァ、やってくる、もの好きな選手も、そういる、とは言えない不人気チームだが。立地最強なのだが、神宮と言う投手ふりの欠陥球場と、親会社の野球に関する力の入れようのイメージか? 

 それでも、ヤクルトの選手の活躍に、一喜一憂するファンがいる。そう言う人が、本気で応援して、ライブ実況を、生観戦を、YouTubeでやっている。それは、見てみよう、と言う気にもなるものだ。 

 YouTubeの使い方は、ゲーム実況や、芸能人のユーチューバーデビューなど、幅を広げているが、これからも、もっと、色んな用途に、ライブ配信としても、使われていくだろう。僕は、もっと、ネット社会が、SNSも含めて、社会に浸透していけばいい、と思っている。

 まだまだ、暇な時間は多く、飢えた狼は多い。世界を面白く展開させる方法は、色々とありそうだ。人との繋がり方も変わっていく。

 面白く、品位を弁えた、健全かつ、有効な社会に進展させていこう。あまり、規則、規則も、窮屈だが、伸び伸びとやることと、他人の領分を侵すことは違う。当たり前に、理解して、盛り上げていこう。みんなが参加できる、愛ある世界だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 野球のサイトで、まとめ記事があるツバメ速報や、5チャンネルの掲示板を見ている。ヤクルトを好きになってから、色々と、他人の人の話が聞きたくなって、見るようになったのだ。

 そこには、口の悪い人間がいて、あれこれ、選手や、監督に、難癖をつけている。もっと、発言を慎め、と言われれば、それは、自ら、便所に衛生を求めるようなものだ、と言うほどだ。そう、そこは、便所と変わらない、落書きの巣窟のような場所だ。

 どういう人間が集まるのか? 分からないが、僕も、書かないとはいえ、集う人間であることには変わらない。

 ただ、なぜ、覗くのか? というと、それは、何も、そんなに、品の悪い、連中ばかりじゃないからだ。しょっちゅう、喧嘩しているが、中には、センスのある人間がいて、面白い話ぶりをする人間もいる。また、データも、それなりに、どこからか、みんな引っ張り込んでくる。一番最初に、その日のスタメンを知れたり、どの選手が、どんな期待を数字として持たれているのか? が分かる。

 おおよそ、予想もされるが、逆神と言って、反対の結果になる場合が多い。これは、自分自身でも、よく起こる現象だ。なぜか、予想は、裏切られる。

 初め、僕は、彼らを、友達、と言っていた。ガラは悪いが、善悪の最低限の判断はつく、同じ野球に夢を見る同志たち、だからだ。死ね、バカ、糞、何て言葉は、ざらに出てくるが、それなりの、不文律はある。みんな、自分を、悪だとは思いきれないのが、人間なのだ、と知らされる。それは、ある意味、何でもありの中、立派なことだ。

 だから、友達、と言っていた。今現実に、友達に会う機会が全くない、僕には、重要な、環境を作る、人達なのだ。

 けれど、少し、いつごろからか、躊躇するようになった。やはり、越えてはならない、一線を越えた瞬間があったからだろうか? 今は、友達とは言わず、傍観者的に見ている。暇潰しだ、が一番適した表現だろう。

 なんJ民、と言われる、ある種、心の弱い人間なのか? 世間に行き場のない人間なのか? そう言う人間たちもいる。けれど、やはり、センスを持った、精神的巨躯に思える。そこでしか、言葉を吐けない人間は、さすがに、そこでは、ものすごく万能な、強者、なのだ。

 彼らの話は、やはり、心の弱さを持った僕には、仲間の言葉のように聞こえることもある。まァ、今後、どういう発展をするか? は分からないが、市民権は、得たのだろうか? 山口真帆の、NGT事件のときは、本当に、面白かった。どんな、推理小説より、ミステリーより、最高の現実世界論、だっただろう。

 そんな感じで、これからも、発展したいのか? したくないのか? 分からないまま、世界の闇の生んだ文化なのか? それとも光を望んでの文化なのか? 分からないまま、傍観していこう、と思う。

 何か、渇きがあるなら、覗いてみるのもいいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深く、深く、眠りにつきたい。しばらく、季節が変わり切るまで、起きないような眠りにつきたい。輝きの世界で、輝きから隠れるよう、身を丸めて、ひそめて、眠りにつきたい。ここは、夢を見る世界だ。現実に夢を見られなくなったら、眠りの中に夢を見よう。

 

 オレよりしんどいヤツは、いっぱいいるよ。

 逃げっぱなしの人生さ。

 

 そして、したたかに、幸福を掴もうと狙っている。

 膨大な量の、ただ、待つだけの時間がある。何かをやらなきゃいけないこともないが、何かはやるだろう。それでも、それが、時間を早めることにはつながらない。ただ、阿保面して待っている方が、ましなくらいだ。

 ただ、自分は、自分。自分が、能力を落とすのは、もったいない。何か、やれることがあるなら、それに対して、技術を身につけていきたい。まァ、でも、そのうち、時間が来れば、扉は開くから、気にはしていないが。

 楽に生きよう。苦労なんて、してもしょうがない。ただ、勉学をするだけだ。グーの音も出ないほど優れた作品を書いても、扉は開かない。それが分かっているだけのことだ。人生、とは、何? なんだろう? きっと、登場した人間には、関係ない。筋書きを描く、キチガイの、憂さ晴らし、にすぎない、のだ、と思う。

 任せていたら、学ぶことも何もない。やけに、彩るが、そんなもの、何の慰めにもならない。相手にしないことが、一番、楽だ。

 時間は、自分の為に費やすのが、一番だ。寝て過ごす、でもいいかもしれない。

 まァ、待ち時間は、待たなければならないものだ。だから、待つよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し、落ち着こう。心を鎮めて、芯となろう。誰かが、火を灯す、その日まで。

 いい加減が過ぎた。誰にでも優しい人にさえなれず、選り好みをしていた。それは、いいことだ、とも言われるが、僕は、僕の持つ、僕らしい形態がある。それには、反している。

 綺麗な人の笑顔を見れば、心は弾むが、それが続けば、いい加減が顔を出す。それで、どこにも行けなくなったのが、今の状況だ。少し分かりづらいが、きっと、そうだ。だから、心、正さなければいけない。心の弱さを、駆逐しなければいけない。

 バカらしいことで、面倒くさいことになっている人を笑えるように。それ、バカらしいよ、と言えるように。今は、完全に、言われる側だ。

 ひっくるめて、大人になろう、と言うことだ。

 人間に甘えていた。どうせ、選ばずにはおられない、と甘えていた。まさに、バカ、だ。

 損する、とか、あるかもしれないが、損とか、ではなく、自分はどうなんだ? ということだ。まずは、顧みて、心正さなければいけない。整理、しなければいけない。散らかったままでは、ダニが繁殖するらしい。いい加減、精神的苦痛と、精神的怠惰、の繰り返しでは、肥えた豚、のままだ。

 情報をとり入れないことは、結構、未来に対して不安があるが、まァ、出たとこ勝負でも、未来はいい。その前に、自分が、どんなであるのか? が問いになる。

 もう、いいおっさんだし、精神的子供では、笑われる。

 ここが、最後の、分岐点、かもしれない。

 欲しい未来、そこに手を伸ばすのをやめるのだ。永遠も損なうかもしれない。なかなか、こちらこそバカげた選択なのかもしれない。それでも、複雑に絡み合った、糸、クモの糸のような糸から、逃れて、自由に、飛び立つには、この選択しかない。

 愛するを手にするための試練、と思おう。今のままでは、とても、愛するになれるとは思えない。欲に溺れて、欲でおっちぬ、が虫けらのごとく、通常になる。見たいも、交じり合いたいも、どこをどうとっても、欲なのだ。自制は、必要不可欠、だ。

 人間らしいも結構だが、もはや人間扱いもされていないじゃないか? だから、人として、美しく、気をしっかり持つのだ。少し、違う、未来へ、足を進めてみよう。そう考えれば、何となく、進む気持ちもおきる。

 さァ、頑張りどころだ。

 さて、三日と持つのやら、と言うところではあるけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子供のことを第一に考えない親は、まさに、人間として失格だ、と思う。子よりも親の方が苦労と思いたい、じゃない。親には、親の生きる、満足する権利があるんだ、じゃない。カマキリと一緒。子供を産んだら、子供に死んだも同然なのだ。子供のことを第一に考えなければ、それは、人間として、悪だ。

 子供のことも考えず、自分の好きにする親が、どこにあるか? はっきり、そう言いたい。人間のならわし、の問題だ。時代が違う、とか、じゃない。今になったら、今すべき、親としての責任がある。僕は、親として、子供に尽くさない親は、好きじゃない。子供も迷惑がるかもしれない。それを踏まえて、親として、やるべきことは、やらなければならない。

 人間の失格の烙印を押された人間は、その後を生きるに値しない。親になったら、もう、男としても、女としても、死んだ、と思ってくれ。

 それは、酷い、と言う人がいるかもしれない。いつまでも、男として、女として、見られたい、と。けれど、それは、どういうことだ。いつまでも、浮気をする隙を持ちたい、と言うことか? そうじゃないだろ? 旦那や、奥さんに、そう言う関係性を保ち続けてもらいたい、と言うだけのことだろ? それならば、よそ様から見れば、恋愛の対象として、親になったら、もう、終わりなのだ。これに反論できる、価値観が、世界にあるだろうか? 神様は、そんな価値観を許す、だろうか? 

 真面に考えてほしい。生きる、と言うことは、家族を持つ、と言うことは、時に、命より大切な権利を持つことであり、だからこそ、命を楽しむことを失うことでもあるんだ。

 もし、親としての責任より、個人の欲求を大事にすべき、と言う神がいたら、それは、神様失格でしかない。僕は、子供がいるのに、他に手を出す男、女を、何より軽蔑する。かまいたくもない。同じ人間だと思いたくもない。

 子供の幸せを願わない親がどこにいる、これは、僕の母親の言葉だ。今事故にあって、顔より下が、動かなくなって、コロナ禍の状況で、お見舞いにも行けなくなった、母の言葉だ。

 幸せとは、守り、育てることだ、と気づいてほしい。貰い受け、他人より注がれることではない、事を、学んでほしい。

 世界は、守り、育てる、もののためにある。