革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -19ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 ロダンの石像。芥川のポーズ。人は、考える。これでいいか? と思案する。いいわけないか? ばかりある世界だが、いいものもある、に思えることもある。だから、より思案する。いいものばかりにすることはできないのか? と。

 難しことじゃない、と軽々に僕は言う。困難ばかりだ、と他人は言う。君の人生が、特に、それをよく表しいている、と言う。そうか? あまりにも、単純な世界、だったが。と、僕は言う。すべては、二進数で進んでいる。が僕の考えだ。

 本は、稼ぐ方法か? エロしか売れない。人が、作品を作る本は、相手にされない。啓発本は売れている。スピリチュアル系も、ブログで、アクセスを稼いでいるみたいだ。

 フォロー大作戦で、アクセス数を、最大八から、四十三まで伸ばした。二か月と二十日程度で、その数字は、いいのか? 悪いのか? 分からない。何にもしなかったら、週末に、十いくか? どうか? だろう。ただ、本は売れていない。売るに値するもの、と言う自信も、そこまでないから、仕方ないか? と思う。もっと、もっと、勉学しなければ、と思う。

 YouTubeでキンドルでの稼ぎ方を見ている。どうやら、稼ぐといより、集客に使うのが、趣旨に変わっているようだ。あまり、儲けに儲けた、と言う話は聞かない。それなら、ブログで、ワードプレスで、特化型をやっている方が、華やかだ。ただ、そう言うことじゃない。もちろん、違う。売れなければ、それは、名前がそこそこ表に出なければ、考えの半分も言えない。それは、確かだが、求めているのは、そう言う情報じゃない。僕は、思想、主義を売る作家だ。物語を売る作家じゃない。と言っていて、今の世界には、あまりにも少なすぎる。

 どちらか? と言えば、売れやすい、啓発本に近い形だが、一応格好は、文学、純文学だ。それで、新しいやり方を見せつけたい、わけだ。僕が表に出さない限り、誰も知らないままで終わる。そのもったいなさは、自分が一番よく知っている。

 とは言え、ブログを書いているが、ここで、何か、新しいものを、見つけ出せるのじゃないか? と思っているのだが、気がくらむような距離に、少し、途方に暮れている。もうなんか、普通に作家のみを目指して暮らしていた、あの頃に戻るか? とも思う。ニーズ、と言えるところまで、開拓もできていないのだし。

 言葉は、無力、なのか? 

 やけに虚しい。僕の言葉が、全世界に届いて、全世界の人々が、自分の思ったとおり生きるようになったとしても、なぜか、虚しさしか残らない。何が欲しかったのか? 分からない。他人の笑顔が欲しかった。そこが僕の原点であることは間違いないのだが。

 ただ、無力感を感じている。どうでもいいか? と言う気持ちだ。叱咤激励も、大して、効果がない。まァ、適当な世界だから、適当にやるさ、と思っている。

 ブログを始めて、色んな人の意見を読むようになって、かえって、分からなくなった。みんな真剣だし、大して重きを置いていない人でも、ある種の真面目さを持っている。だろ? 自分を見失っているだけか? 

 ああ、野球が見たい。他の人が、他人のために頑張る姿が見たいな。一喜一憂したい。人は、人を見ていないと、腐ってしまう。人を支えるのは人だと、改めて、知らされる始末だ。

 と、愚痴ってもしょうがないのは分かっている。こんなのは、一銭にもなりはしない。明日からまた、革命的なんちゃらとやらの、なんちゃら、を、なんちゃら、やらなければならない。

 しんどくても、一歩、二歩だ。それが、いずれ、ジャイアントステップに変わる。そのステップは、やがて、地球を震撼

させるほどのものになるぞ。と自分で自分を慰めてみる。

 正直、きついが、やるしかないものは、やるしかない。自分の知る、すべての、勇者たちのために。

 

 キンドルでこれ以外にも本を出しています。クリックしてくれると、あらすじが読めます。良かったら、読んでみてください。

 他のブログも読んでみてください。

 

 

 

 

 

 まさに、今の、世界の状態だろう。世界は、あちこち、血の匂いばかりだ。コロナ禍は、しばらくの間、やむことはないだろう。この環境下で、金稼ぎの算段を選んだ僕。あまりに、状況が悪すぎた。自立を目指してのこととは言え、資本主義だ、金儲けを考えるのは悪ではなく、道理であるとしても、世紀の禍の前では、無力でしかない。逡巡しているが、それでも、続けるしかないから、続ける。とはいえ、上手く、金儲けをするには不純すぎるんだろうな、と思っている。

 神様はいつも見ている。信じていない、と言われ、自ら、尻尾を巻いて逃げた、神様、ではあるけれど。

 漱石の言葉を残す。

『道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起こる』

 知ったのは、高専のころだから、三十年近く前だ。悲劇、とは、死、のみのことを言う。ずいぶん、この言葉を翳してきたが、誰も、聞きやしなかったな。

 Twitterに投稿した文章を書く。

「また、政治家は、悪者で、お笑いはヒーローか? 実際、そうなんだから、何とも言えないが、今日の日本を作ったのは、何が原因であるのか? ちゃんと、考えてほしい」

 日本のお笑い信仰は異常だ。何がなくても、お笑いがある、と思っている。本当に、尊いのは、無償の笑いだ、となぜか、気づいていない。日常に、それを生み出せる人間こそが尊いのであって、所詮、金儲けの延長で、社会の未来を、何も考えてこなかったものたちは、罪人と、何ら変わりがない。他人笑わすことを金儲けにした罪は大きい。資本主義だから、いいではないか? ああ、いい、それなら、国会議員もいいだろう。

 土田のコメントに対して、

「後手後手とかさァ、政府が腐ってるのも、世界一低能、低倫理な猿がやっているのも分かったよ。じゃァ、どうすれば、って話をしようぜ」

 低能な、低脳かもしれない。それに、上の投稿でも、何が原因、のところを、何にが原因と、打ち間違えしている。浅はかな気持ちで書いたわけじゃないのは、知っておいてくれないか? 

 たけしのコメントに対して、

「国会議員の金を半分にしろ、とか言っているけれど、お前は、その番組で、いくら、ギャラをもらってるんだ?」

 ギャラなしで、言ってんなら、理解もできるが、一本で、十万なんて金の数倍もらう人間に、低所得者の痛みなんて分かるわけない? 所得0の僕が言うのだから、本当だよ。

「お前が、先手を取ったことがあるのか? オレはあるぞ。何十年も前から、日本のバラエティー文化を真面目に考えないと、政治なんて、国政なんて、改善しねぇ。誰も、本気で、見向きもしねぇ、って言ってきた」

 フォロー数0の、やっつけの、Twitterからだ。予想通りで、愉しいね。

 では、現在の安倍政権をどうしたらいいのか? 

 知らねぇよ。そんなもの、とっくに捨てている。

 なんでもそうだが、十年後を見なきゃ無理だろ? あれだけ、遠回りしろって言ってきたんだ。遠回りすればいいんじゃないか? 

 何か、間違ったことを言ったかな? 自己中心的なことを言ったかな? ああ、言わんこっちゃねェ。今頃、後悔しても、そりゃ、遅いよな。調子に乗って、ずっと、他人をバカにしてきたからだ。それで、自分らが、最先端みたいな顔で、社会の風俗を決めてきたからだ。しょせん、金をばらまいた、結果でしかなかったのに。

 だが、十年後のために何もしなかったら、十年後も、ずっと、不良品の日本のままだ。

 ちなみに、僕は、お笑いが嫌いなわけじゃない。僕は、お笑いの、まだひょうきん族のころからの、新感性の、お笑い出身だった。その後も、ずっと、お笑いを見てきた。僕より面白い奴なんて、いなかったけれどね。ウッチャンナンチャンのファンをしていた。オールナイトニッポンは、毎週欠かさず聞いていたし、番組は、録画して、何度も見返していたほどだ。夢逢えのころから、ずっと見ている。

 政治家も嫌っていない。いかに、不必要な、能力や、意志、姿勢のなさの人間がやっているか? は承知しているが、選挙にもいかない、政治に興味さえ持っていない、僕が、どうこう言えることじゃない、と思っている。安倍政権の支持率が、まだ、そこそこあるのは、そんな輩が多いからもしれない。これをどうするか? は、メディアの、社会奉仕、努力次第、だろう。

 でも、今は、違うかな。テレビ自体を、野球中継以外では、必要としていない。 

 今思うのは、文士が足りねぇ。維新の志士のごとく、命懸けで、戦う、文士が足りねぇ。何とか、解決したいものだ。

 ブログは、ジャーナリズムに向いている、

https://ameblo.jp/rightown/entry-12589447397.html

と書いたが、これも、そんな感じだ。

 今日は、この一投稿だけにする。読んでほしいから。アクセス数が増えてきたところだし、そこで、世間評に、反対するようなことをするのが、僕らしさ、かな。まァ、正しいと思ったことなら、結果は、二の次で、納得できる。

 

 

 

 

 

 

 大器晩成、それは、つまり、耐えて晩成のことだ。ただ、ただ、晩成するには、耐え続けるしかない。それも、何の保証もない、どれだけ耐え続ければいい、なんて、期限はない。ただ、ひたすら、与えられる苦難を、文句も言わず、僕は言っているが、言わず、堪えて、人形のように、受け入れては、傷を増やし、慰めて、また立ち上がって、待ち続けるしかない。越え、登るしかない。怯えを忘れなきゃ、やっていられない。

 これに、怯えまであったら、人間の原型は、完全に消えてなくなるだろう。

 様々な人がいる。考えがある。僕は一色で塗られている、と言っているが、十人十色でも、千差万別でも、いいだろう。だから、早いうちから成功する人もいる。僕のそのうちの一人だった。自ら、道を逸れる、レールを外れるまでは。分かっていたのだろう。そのころから、この言葉を使うようになった。

 大器晩成? ああ、あれは、耐えて晩成だよって。軽口のように口にしていた。

 そんな心境は変わらない。けれど、言ったように保証はない。成功できるなら、早いうちに成功していた方が、ずっと、それで、脅され続けずに済む、と言うことだ。後は、自惚れないように、謙虚と、謙譲を忘れないように、心掛けて、生きていけば、ポジションも奪われずに、そのままの状態で行けるだろう。

 けれど、僕らは、多くは、失敗してきた人間だ。道を逸れたまでいった人間は、それほど多くないかもしれないが、思うように生きてきた、と言う人間ばかりではないだろう。どこかで、耐えることがあって、あるいは、今も耐えていて、待っている。明日来るとも分からない、いや、明日は来てくれるかもしれない、晩成の日を。約束など、何もされていなくても。

 それだけに、今は、学ぶしかない。どんなことからも、ほんの小さな願いからも、他人の嘯くような口ぶりからも、本当に人が求めているものが、どんな愛情で、どんな自分の信じられ方なのか? を学んでいくしかない。

 人を分かることが、今、僕らにできる、唯一の、未来への、創造の積み上げだ。

 晩成と言うのがいつごろまでを言うのかも分からない。本当に、明日来るかもしれなし、ずっと、来ないかもしれない。ただ、人は、急減に変化するものじゃないから、幸せ歩いてこないの言葉通り、こちらから、一歩ずつ、確かな足取りで、歩いていくしかない。急激な変化があるとしたら、環境の変化しかないだろう。

 その中で、自分まで変わっていたら、晩成した、意味はない、だろう。自分をどれだけ、保ちつつ、成果を直に評価として、得られるようになった自分を、守れるか? 楽しめるか? がまた、新たな課題になる。まァ、それは、今はまだ、いらぬ狸の皮算用、だろうが、心得は、ちゃんと磨いていないと、いざなったとき、情けない結果へと自分を導くことになる。

 せっかく、耐えてきたことが、その価値をなくす。耐えた歴史は、解放のための歓喜のための歴史ではない。他人の痛みが、他人への寛大の気持ちが、自分のものになっているか? のための歴史であり、そのために、続けてきた勉学なわけだ。他人を想えるようになっていなければ、与えた神様もがっかりだし、そこまで来た自分もがっかりだ。

 耐えて晩成は、保証されたものじゃない。けれど、そこまで与え続けられる勉学は、自分次第で、本当の価値のあるものにできる。何が保証がなくても、それだけは、事実として残る、経過、経験なのだから、軽々に扱わず、一歩、一歩を、大切な足並みとして、かみしめて、覚えて、体に刻んで、いきたいものだ。

 結局は、自分が生きた価値を、上等にするのも、劣等にするのも、自分自身でしかないのだから。耐えて晩成、から、耐えて万能、へと向かおう。

 少し、横柄になったか? 

 

 キンドルでこれ以外にも本を出しています。クリックしてくれると、あらすじが読めます。良かったら、読んでみてください。

 他のブログも読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 できるかい、君? 君が、その口を捨てたら、いったい、何が残るというのだい? 確かに、僕は、口だけの男だ。ひ弱で、でたらめで、臆病、三つ、四つ、どうしようもなさが、僕を作っている。今は、話をするとき、どもる癖がついてしまったけれど、書くときは、何でもなく、つまることなく、スラスラ書ける。

 もともと、話すことには自信があった。あがり症で、引っ込み思案なところがあったが、気心さえ知れた仲なら、会話の中心で、ボケの機能も、最新型を常備していた。僕から生まれたボケが、世界にはあるのではないか? と言うほど、誰も使ったことがないボケを、一早く、自分が使っていた。

 今では、笑いのセンスはなくなり、淀みなく話す能力もなくなったが、代わりに、文章力を手に入れた。ずっと、何十年も磨いてきたことだ。もはや、僕の人間性の一部、と言っても過言ではない。これがなければ、僕は、本当に、どこにも行き場所をなくすだろう。哀れな残骸は、誰も気にしない残骸として、抜け殻のように腰を下ろしているだけだ。

 その口を捨てる? それは、正直、困る、としか言えない。詭弁が、防御力で、雄弁が、攻撃力の人間だ。何の術もなく、街に、社会に放り出されたら、ズブズブと、世界の沼に、落ちていくだけのことでしかなくなる。こんな僕を、神様は救ってくれる、と言うだろうか? 口が悪くても、反抗ばかりでも、自慢しか話していなくても、僕には、僕の能力があるから、何とか、世界の片隅にでもいさせてもらっているのではないだろうか? 

 鬱の人は、感謝が足りない、と書いている人を見た。僕は、鬱と言い切るほど、困難な状況じゃないが、それは、人間の本物の壮絶を知らないだけでしかない、と思う。世界の、叱責は、計り知れないほど、傲慢で、しつこく、思いやりの欠片もないもので、何もしてなくても神は祟る。僕にとって、神様は、善意の象徴だったことはない。いつも、苦難を与える、試練好きの、捻じ曲がった、悪意、そのものだった。だから、僕は言っている。

 悪魔はいない、神がいるだけだ、と。許されない言葉かもしれない。傲慢のプロである神も、許しはしないだろう。罰を受ける。と言うより、受け続けてきた。それも、人間賛歌はいいが、人間美談、綺麗事、と言うのは、一番嫌われた。それならば、悪をやっていた方が、悪人正機、悪人こそ往生をとぐの方が、ずっとましだ、と、神経を病むほど、言われ続けてきた。

 確かに、恵まれている。人間、生きているだけで、どれだけ、恵まれていることか? けれど、生きているは、同時に、生きてあげなければならない、であるときもある。経験した人間がどれくらいいるか分からないが、僕は、その山を登ってきた。頂上に着いた、と思ったら、突き落とされるか、さらにもっと、大きな山が、その向こうに見えるか? のどちらかだった。だから、感謝の気持ちまでは持てない。

 そんな、僕の口だ。捨てろ、と言われるのも、分からないでもない。

 けれど、今僕が、口を捨てることで、一番困るのは、僕自身が、勉学をできなくなることだ。僕は、こうして、自分なりの想いを、この、霧や、靄が立ち上った心から、表に、アウトプットすることで、自分の表現を、自分の考えがどうであるのか? を、学んでいっている。それが、何とか、曲がりなりにも、人間を続けていられる自分を、維持させることができている実態だ。。ここで、口を奪われたら、本当に、形に残るものは何もなくなる。僕は、僕を失い、何の支えもない、ただの石ころのようなものになるだろう。

 それでは、せっかく、立ち上がりつつある、この足が、幸福を感じつつある、この両手が、あまりにも可哀そうだ。だから、僕は、神に嫌われても、間違っているとしても、言わなければ、と思うことはいうし、表したい、と思うことは、表で、表現に変える。運命に、命運に、怯えるばかりが、人間ではない。それに立ち向かうのも、また人間だ。

 そう思って、また、大口を開けて、狼の咆哮、いや、犬の遠吠え、辺りの、巧言令色を、無神経に、話し続けるだろう。

 

 キンドルでこれ以外にも本を出しています。クリックしてくれると、あらすじが読めます。良かったら、読んでみてください。

 他のブログも読んでみてください。

 

 

 

 

 

 刺激、中でも、思惟激、と僕は言っている。思惟に、強い、激を与える、思索や、観念や、情感のことだ。刺激が、強くなれば、なるほど、より強いものを求めるようになるように、思惟激も、より、強いなら強く、滑らかなら、滑らかな、ものを求めるようになる。

 人間、感情に強く作用するものより、思考に直接感激を与えるものの方が、味を知ると、忘れなくなるものだ、と思う。だから、自分でも、自分の書く文章に、それを求めてしまう。肥大した、思惟激病は、刺激病なんて比べ物にならないくらい、味わう量が、器の量を越えてしまうと、それこそ、人間を、廃人に追いやってしまう。

 ここは、気を付けなければならないところだ。

 それでも、酒が、百薬の長であるように、思惟激も、百考の長である。世界は、一つの思惟激を受けるたびに、まるで、それまでと違って見えるほど、有能な力を発揮することもある。

 ただ、憑りつかれ過ぎは、危険だ、と言う話だ。そのあたりの自重は、本当に、取り返しのつかないことになるから、守ってもらいたい。気長で、気楽が、一番、心には、優しい。

 心の平穏な状態こそが、世界の幸せであることは、事実であるから。

 思惟激は、閃きのように、納得させるものだ。なるほど、ここは、こう考えるのか? と思わせ、それで、そう持って行けば、この心境に、立てるのか? と、教授してくれる。

 本や、漫画、読み物が、一番くれるだろう。また、自己での思索が一番だ、とも思う。それで、漁り、貪り食うように、人を突き動かすわけだ。かかった人間は、麻薬と同じで、なかなか、解けない。

 問題は、これに中毒性がある、と言うのと同時に、主張を本人に与えてしまう、と言うことだ。これが、世界の、混乱の、災いの、喧嘩のもとになる。色々と自分の主張を押し付けようとして、下手に、世界を、回転させてしまうものだ。それが違う人に会えば、摩擦になるし、あの時あった、感激が、思惟激が忘れられないために、どうしても曲げることができず、正面から、激突してしまうことになる。それでは、やるせないのも、やるせないものだ。

 どんなに、自分が分かっているつもりでも、他人は、その思惟激に会っていないのだから、禅問答になるのは、仕方がない。それでも、分かり合えなくても、自分の思惟激を信じて、大切にしてしまうから、宗教と同じで、意見の対立からの、戦乱にまで発展してしまう。

 それは、物質的、衝突だが、一番厄介なのは、精神的、柵を越えてしまうことだ。まさに、イッタ人間、状態になってしまう。僕は、幼いころから、だいぶ、精神的訓練をしてきたつもりだったが、それでも耐えられなかった。太宰や、芥川もしかりだ。漱石が、芥川に送った、牛のように図々しくなれ、を実行できなければ、壊されることは、当たり前で、自ら、自らを殺める結果にまで、推し進める。ゴッホの片耳だってそうだ。そりゃ、千切られるさ。発狂の寸前まで行くのは、仕方がない。人間の、器の量では、含み切れない、量、と言うものが、実際の世界には存在する。それに、どうして、耐えきることなんて、できよう。

 何も知らない人間の方が、よっぽど、幸せで、純粋なのかもしれない。これは、大袈裟でもなく、頭が回らないからと言って、その人を否定するのは、ただの、本物を知らない、偽物で済ませてきただけの人間である、と言う証明でしかないことだ、と思う。

 感覚の弱い男をバカにする。と書いたが、そんな、軽々なことでは、自体がないんだ。人間、勇敢越えなければならない本物は、死ほど、痛烈なものだ。

 思惟激がなければ、人は、進もうとしない。けれど、あり過ぎると、こんどは、自らを侵してしまう。勇敢な一歩と言うより、単に、自己責任の一歩。他人に、それを勧めるばかりの人は、あまり、心いたわれない人だ、と思う。あまり、賢くない人だ、と思う。

 

 キンドルでこれ以外にも本を出しています。クリックしてくれると、あらすじが読めます。良かったら、読んでみてください。

 他のブログも読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気は、気力の気です。根気の気です。気持ちの気でもいいです。いわゆる、気疲れ、ってやつでしょう。これまで、意気込み過ぎて、色々と消耗がきつかった。結果を望まず、長い目で見て、少しずつ進んで行こう、と思います。あまり、深いものは書けないかもしれない。けれど、膨大な暇な時間、何もしないわけにもいかない。何かはするもので、それが、ブログになるかもしれない。ただ、甘い認識で進めていこう、と思います。

 病気の幻聴も、このところは、だいぶいい感じです。声は相変わらず聞こえますが、スルースキルも、よかった頃に戻ってきた。ここでストレスをためて、元の悪い状態に戻ったら、元も子もないですものね。病院の先生にも怒られます。あまり、気負わず、気にせず、やっていきたい、と思います。本来、何書いてもいいのが、ブログですものね。

 少し、革命的なんちゃらとやらに、とらわれ過ぎました。文芸復興、文芸復興、走らなきゃ、走らなきゃ、と気を張り過ぎました。少し、甘やかそう、と思います。

 勉学は、続けなければなりません。惰眠に次ぐ、惰眠は、不幸すぎます。辛過ぎて、最低の気持ちにしかなりません。少し、やる気や、気概を、抑えて、進もうと思います。それでも、無気力まではいけないでしょう。男気も必要です。気迫なき文章に、どれだけ、価値があるか? は知りませんが、気分のいい方へ、いい方へと向かうつもりです。

 どんな駄文を書いても、気が滅入る必要はない、と言うことです。気を衒うのもやめです。気兼ねしないのが一番です。気性の荒い人間か? どうか? は知りませんが、気持ちのいい僕でいようと思います。気合は、入れません。気が違っているのは、病気なのですから、当たり前です。気丈に立っていられるような状況ではないですが、気遣いができるところが長所なのですが、気づいたら、また元に戻れた、と言うような気勢に変えれていればいいな、と思っています。気絶しかけたまま、気体のようなふわふわした、呑気でいようと思います。気忙しいのは、こりごりです。気功は信じませんが、気候はいい時分になりました。気晴らしに、散歩でも行きましょう。

 気づまりする必要はないでしょう。気取る必要もありません。気の毒に思われない程度に、気早ではなく、気長に、書いて、見返しても、気恥ずかしくてもいいじゃないか? ですね。気品は、保ちたいですが。多少、遠慮気味です。気風は、元来、大人しい方で、気まぐれなタイプですから、気の迷いもあることでしょう。気休めはいらないなんて言いません。どんどん、気に病むことがない状態に行けるなら、気弱になっても、よし、とします。何にせよ、気楽が一番です。うまい上昇気流に乗って、気障りなことは除外して、気を散らしていければいいのですが。書くのもまた、気配りが必要な作業ですから、気軽に、気心が知れた人に、気さくに思われるような文体で、気兼ねなく続けていこう、と言う気配にいます。気がかりなことは、アクセス数が下がるだろうことですかね? 気落ちしないよう、気に食わないは、なしで行きます。気球にでも乗った気で、新進気鋭の作家は、気鋭緩く、気後れしながら、気運は天任せで、気を許した人に、会いに行くこ気心で、進むのです。気の利いたことは何も言えませんが、気に飲まれないように、先を見ると、気が遠くなりますが、気が気でないですが、気がとがめない程度に、気をしっかり持って、やっていこうと思います。

 気を使わないで行こう、と言う題でしたが、ずいぶん気を使いました。やはり、これも、気質なのでしょうね。

 

 キンドルでこれ以外にも本を出しています。クリックしてくれると、あらすじが読めます。良かったら、読んでみてください。

 他のブログも読んでみてください。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何を描いていたわけじゃない。ただ、目の前の感覚を追っていただけだ。これが書きたい。これが面白そうだ。ここへの挑戦が、僕を大きくする。困難にこそあたれ、そう言っていた。ずっと、頑張ってきた。いや、手も抜いてもきたけれど、走らなかった日はなかっただろう。

 けれど、成果が出ない。さすがに、しんどい。未来像が描けない。時間には、今、と過去しかない、と言っても、未来像が描けるから、進めるんだ。ただ、過去には納得している。充分な実りがある。僕自身の、作品と言う形になったものの。よく、これだけ進めたものだ、と思う。それは、特別、先を見てこなかったからだ。作家は、未来に向けて書くものだ、と言う僕のポリシーと逆のことになる。僕は、目の前のものだけを追いかけて、一つ、一つ、それなりの時間と、毎日と言う時間で、潰してきた。成果は、確かに、後で振り返るものだ。

 色々な思想がある。僕にしか言えなかった言葉がある。よくできました、をもらっても、かまわないだろう。何より、僕が、この僕にあげる。それでも、まだ、まだ、道の途中だ。ブログもやらなければならない。作品も、暇があるなら続きを書きたい。インスタグラムで、写真に移ろうか? とも考えているけれど、まだ、やろうとは思わない。誰か、面白いことを、続けてくれ。楽しい、と言えるようなことだ。世界は、僕の知る限りでは、いつも、楽しさに飢えている。

 僕は、少し休もう、と思うが、その間を、繋いでくれる人がいる。必要になる。と言いながら、また、走る貧馬になるのだろうが。魂の炎は消えない。やらなきゃならないことは、やらなきゃならないことのままだ。名前がない、と言うことが、これほど、悲惨なことか? と思う。神様に与えられた名前自体が、数奇な運命のもとにあった。すごく平凡な名だ。山畑健。ハタ、という字は、どこにでもあるが、山田は多いが、この字での、山畑は、珍しい。しかし、田を焼き尽くすなんて、不吉な名前だ。それが、畑なのだろうが。野菜が取れる。体にはいい。それでも、あまり、実は、いい命運の名前じゃない。

 別に、姓名判断ができるわけじゃないけれど、僕の聞いてきた歴史の中では、健も含めて、色々問題がある名前だ。そうは見えないだろうけれどね。

 休む、と言った。そう言うつもりでいる。なかなか、しんどい、二か月半だった。成果がこれでは、やってられない、と言うのも、分かってもらえるだろう。そこそこ、価値のある言葉を並べたつもりだ。世界には、何の価値もなく売れている、駄文が多分に存在する。たぶん。届かない、とは、悲劇以外の何物でもないことを知らされただけの日々だった。

 何もしないのも疲れるが、こうして、このぐらいの文章なら、書いている方が楽だが、力は抜こう。残ったものならあるはずだ。神様に、文句ばかり言っていてもしょうがない。

 僕ぐらい、ぐれた、学生も少ないだろう。日本の夜明けは来るのか? 僕の夜明けは来るのか? 来ないがいい、と言っているものは、何がいいのだろうか? 自己保身では、本当の愛は分からない。愛と言う字にはなれない。別にかまわない、と言うなら、それでもいいが、せっかく生まれたのだ。知って帰れ。僕は、そう思う。

 正義的文章、今我にください。そう謝った。心が、少し、こもっていないかな。疲れたせいだ。惰性にならないよう、ならないよう、気を使い過ぎて、惰性が混じってきたせいだ。真面なことを聞かされて、真面なことを言えるようになった。真面なものを見てきたことで、真面な景色を描けるようになった。世界に、真面がある証拠は、僕の足跡が、示している。

 さて、ここから、少し、質が落ちるのが心配だ。踏ん張ってきたが、惰弱に負けるのがしかたない、期間に入った。周期的に来る。拒み、拒み、しのいできたが、侵される一歩前までくる瞬間は、普通にある。せっかく、無理にアクセスをあげてきたが、ここらで質が落ちて、またアクセスが減るのが、残念だ、と思うことぐらいが、残念だ。けれど、仕方ない。肩で息をするようになったら、限界の証拠だ。走り続けるのも、色々と無理はある。

 明日がいい日になればいいな。そのぐらいの気持ちでいよう、と思う。

 

 キンドルでこれ以外にも本を出しています。良かったら、読んでみてください。

 他のブログも読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無縫なら、天衣と言えど着れぬ。まさに、これに向かうことを、僕らはやっている。世界に、どれくらい、神様の意向を聞かない、物や、作品があるのか? は知らないけれど。人が、人の手で縫ったものだから、美しいと思う。美しいと決める。それが、文学であり、芸術だ。僕らにできることは、人間の垢をその創作に、残していくこと。

 アレは、人間の垢を喰っているような奴だ。と、神様を詰ったことがある。色々、上手くいかなくて、やけになっていた頃。自分のことしか考えないが、神様のお得意に映ったのだ。今でも、そう、僕には、映っているけれど。実際は、神様の芸術、空であったり、森であったり、海であったり、星であったり、花々であったり、に、心打たれることはある。これを描ける人が、偽物の心を持っているわけはない、と。

 それは、自然の芸術ではなくて、神様の芸術だろう。だから、天衣ほど、完全な衣もまたないはずだ。

 それでも、僕らは、この世界で、小さな人間をやっている。小さな人間をやっているから、小さな人間のやっている健気さに、恋をするのだ。僕らにしかできない、僕らでしかない、感性の、揺れに、感激するのだ。もちろん、それも、神様が作り出した、一つの芸術でしかない、ことを知らないままに。

 人間は、人間しか愛せない。太宰の、人間への尊大は、物凄まじかったけれど、それは、人間の持つ、哀れを誰より、承知していたがため、のはずだ。哀れみのない生き物なんて、愛するに値するだろうか? 否、愛するに値するとは、その生に、哀しみをたたえた、生命のみである、だろう。僕らは、その最後までの、一生懸命さを、あれこれ、能書きをたれなきゃ、文章さえ作れない、商業さえ、回せない、愚かな生き物でも、ちゃんと、その瞳の奥には、持っているから、お互いを必要とし合えるわけだ。

 人工の美、とは、その人間の、最後の抵抗から生まれた、意力の現れ。人も、人に感動させる、何某かの、人でなければ生むことのできない、生命の力を、持って、そこにある、と言うことに他ならない、と思う。

 神に感謝するものは、生まれ出でたことを、決して憎まないだろう。生まれ出でたことを憎むものは、人の世界に、嫌と言うほど転がされたもの、だろう。弱さ、と、それを言うか? 同じ人間が言うか? 誰もが、よくなろうとして、知ろうとする。本なんて、勉学するためにしか、精神的向上心を、満たすためにしか、開かない、だろう。知り過ぎることが、人を、人外の境地に追いやることもある。そのものは、何とか、最後まで、人としての心を残した言葉を、あるいは、画を、残して、この世界を、自ら、もう、これ以上は、知ることさえ苦痛と、去ることを選ばせるに至る、こともある。ときに、知り過ぎたことが、体に、悪性の腫瘍をあちこち、転移させることがある。

 それでも、最後まで通した、意志は、人間の、人間ならではのものでしかない。歯を食いしばった、自己表現、人間表現でしかない。行けるところまで行くのが、その人間の最後の意地だ。美しく感じる人間もまた、いるだろう。

 それでも、しょうもなさに、辟易してもいるだろう。

 単純でいい。考えない方がいい。それも、一つの手だ。考えて、考えて、得るのが理性だとして、何も考えない本能のままの方が、より、安楽に、世界を楽しむことも、容易いかもしれない。生の人間は、無縫な天衣のはずだ。人の及ばぬ、美しさが、そこには、あるのかもしれない。

 けれど、こうして、何度も、何度も、倒れては、また考え、起き上がる。考え、考えして、考える葦、をやっていく。理性を、人工の美と言って、称賛しようとする。それは、どうしようもない、滑稽な生き物かもしれない。けれど、その起き上がったときにしか見ることのできない、誇りは、どんなに、矮小な生き物であろうと、瞬間の煌めきは、太陽のそれにも、劣らないはずだ。

 そう、せめて、僕は、信じている。

 

 キンドルでこれ以外にも本を出しています。良かったら、読んでみてください。

 他のブログも読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこにいる? どこで、思案に暮れている。算段を描いている。世界は、掌の上に乗せれたか? 

 僕は、第一門、を突破するのが自分の役割だ、とずっと言ってきた。世界は、そこから、動き出す。僕も、その後、改めて、一文士に戻って、活動し始めるだろう。しかし、現状は、まだ、その第一門も、突破できていない状況だ。何とか、僕の一生を使っても、突破だけでもしたい。

 後には、おびただしい数の、流星が、続くことだろう。

 そのためにも、第二問以降を指揮する、麒麟児が必要になるだろう。九番目の、カジュアル、か? まァ、英傑は、世界の変わるべきときに誕生するものだ。

 僕は、現れるのを、ひたすら、待っている。君たちは、困る、だろうか? ついていけない、と、嘆くだろうか? まだ、準備ができていない、と慌てるだろうか? それでも、僕は、麒麟児に、参上してもらい、世界を一息に、一変させてほしい、と願っている。

 そのために今、僕がやることは、第一門目を突破することだ。最初の門さえ突破できれば、後は、雪崩のように、後続の人たちが、その想い想いの意識で、動き出して、殴りこんでいける。景色が描ける。それを指揮する麒麟児がいれば、真面な、軍にさえなるだろう。

 それで、経済、文化、と言う戦場を、支配下におさめればいい。

 もちろん、ただ、後進に、丸投げしているだけ、とも言えなくない。自分で突破したのなら、自分で指揮しろよ、と言われるかもしれない。けれど、僕は、僕の器を知っている。僕は、一個人で、何か新しいことを、探して、それで、また新しいことを始めているのが、似合っている人間だ。大軍を指揮したり、王様のような位置に着いたり、そんなことが、見合う、できる、人間ではない。

 大人しく、一個人に戻るさ。ただ、第一門に関しては、僕が気づいたことだから、僕しかする人間もいないから、僕が果たさなきゃ、と言う思いもある。それに、それが正解、とも限らない。世界は、他の解を求めてあるかもしれない。責務を負うのは、僕だけで、十分だろう。

 ただ、文化を作りたいのは本気で思っているし、念願だけに、それから、離れることも、逃れることもできないのは、しょうがないことだ、と覚悟している。実際、そこに向けてのみ、動いている。

 世界は、少しでも、より良き世界になるだろうか? ただ、ほくそ笑む、僕だけがいる。

 麒麟児は、いるだろうか? いなきゃ困るし、いてくれる、と信じている。いつまでも、僕が、背負っていく、大業ではない。

 次世代は、SNSに、特化した次世代、だろうが、その場所で、圧倒的、スキル、を披露してもらいたい。

 あまたの創作ができた。あまたの、感傷が流れた。次代が、どんな時代かは分からないが、想像を超える景色を見せる時代、であってもらいたい、ところだ。鬱はいらない。憂いもいらない。哀愁なんて、古代の妄想だ。爽やかであればいい。風のようであればいい。

 新緑の風を起こせばいい。時代は、次代のものだ。その想いのまま、色んな絵を描けばいい。枷は外れた。一門目は突破されたのだ。勇者は、勇者の心意気を示せ。

 愛と、勇気だけが、友達さ、だ。人に、人らしい生き方を感化できる人になってくれ。

 世界は、楽しい。美しい。素晴らしい。この原理を、真理を、活かさない術はない。いけるところまで、いけばいい。恐れる必要はない。そんなものは、全部、僕が、取っ払う。自我のまま、我が儘のまま、唯我独尊で、歩みを止めず、突き進めばいい。

 それができる、ひたむきにできる、麒麟児を求めている。探している。待っている。世界は、つまらないで、は存続できない。何らかの、事故、事件は、必ず起こる。それならば、英雄的、行為もまた、待ち望まれている、一つの、因果だ。

 きっと、眩しい世界は、すぐそこで、待ち侘びていることだろう。

 

 キンドルでこれ以外にも本を出しています。良かったら、読んでみてください。

 他のブログも読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 経済は、万人を救うが、経済がダメでも、人は、よすがにできるものが、他にもある。経済を動かすには、人を動かすことだ。衣食住、以外の経済は、人の心が、動いたもので決まる。やり方によっては、YouTubeが、経済を動かすこともあるだろう。ブログが経済を動かすこともあるだろう。人の心さえ、動かせれば、それは、難しいことじゃない。

 問題は、人の心に、適応する、心が、商品を紹介する方にもあるのか? と言うことだ。心なき文句は、ただの、文章だ。そこに心が乗って、初めて、表現になる。表現になれば、付加価値が付き、売り物として、成立するわけだ。

 僕は、詩を売る作家ではない。思想、主義を売る作家だ。と言ってきた。読めば分かるだろう。思想、主義、しか書いていない。情緒も、感傷も、味付けぐらいにしか思っていない。

 人間は、感傷の生き物だ。感傷深きものに触れたがる。体温を感じる。それに対して、思想や、主義、と言うのは、家の柱、でしかない。生活するのには、大切なものでも、人間自体には、感動を起こさない。おいしいものを意識して生活する人間はいても、家の柱を意識して生活するものはいない。

 経済において、どちらが大切か? と言うと、どちらも大切だ。でも、どちらが、長い時間、人に思考に関与しているか? と言えば、断然、おいしいものだろう。他人は、おいしいものばかりを考えて暮らす生き物だ。

 家の柱を軽視するものは、バカだが、実際は、軽視しているのが実際だ。思想、主義、を売る作家は、だから、あまり売れない。まさか、本が、家の柱を作る、とは思ってもいないからだ。本において、大事なのは、味だろう、とみんな言う。

 けれど、新しい、経済を提言する。そこには、新しい、柱が必要になるだろう。思想、主義、哲学、学問、こう言ったものが、重大になってくる。とは言え、また、人が、日々の生活に戻れば、味を重視するようになるのは、自然のことだ。

 だから、味を考えて、思想や、主義も売らなければならない。噛み砕いて、おいしいものに混ぜて、食べさせる、薬、のようなものだ。それが必要とされるのは、一時期で、後の大半は、味ばかりに思考は向く。

 この点で、学者のやりたいことと、読者、視聴者の求めているものが、食い違うわけだ。しかし、それではいけない、と思ったのが、僕で、今後、現れることを期待される、革命的文章の使い手、になる。経済は、思想や、主義を主食にして、味で勝負できる、新感覚として、成り立っていくことはできるのか? それが、問われている。時代に来た、と僕は思っている。ずいぶん長くからだが。

 以上は、本に関することだが、何も、本ばかりに、足を取られるのが人生ではない。むしろ、今の、多くの人は、本なんて、初めから、囚われていない。

 経済は、回っていない、と言われている。何が、回していないのか? 消費税か? テレビの、広告効果の衰退か? 代わりに、別の媒体が、進歩しているだろう。人間の、人間への疑い、ではなかろうか? と、二十世紀の終わりに書いたことがある。軽薄な概念は、さすがに、財布のひもを固くする。

 道義の観念に乏しいものは、経済の観念に乏しいものだ。

 これは、心理であり、真理であるだろう。他人が、純粋に信じられれば、自然、金は回る。社会の、悪臭漂う、空気感が、閉塞感が、金を回らなくしている、してきたのだろう。

 だが、何も、人が、経済を至高に、祭り上げる必要はない。人生の意味は、経済とは関係ないところで、実感することが多いものだからだ。至高の瞬間は、経済と関係ないところで、事実、人を動かし、感化させてきた。なぜ、儲かりもしない、夢を追いかけるのか? なぜ、一銭にもならないことで感動するのか? 価値を知っているからだ。何が、本当に大切か? を知っているからでしかない。

 経済がダメでも、人生がダメでないのなら、それでいい、と思う。

 

 キンドルでこれ以外にも本を出しています。良かったら、読んでみてください。

 他のブログも読んでみてください。