感想記事を書くのが難しい本だろうな、と覚悟して読み始めたけれど、やっぱり難しい。
どうしようかな。
自伝、エッセイ、手記、私小説。
自分のことを語る作品すべてに言えることだけれど、そこには必ず嘘がある。
偽善。偽悪。自虐。自慢。
どうしたって修飾してしまう。
鏡に映る姿は自分の目というフィルターで歪む。
作品と言わず、ブログやツイッターの小文や絵日記などでもそうだと思う。
ありのままをさらけ出しているつもりでも、そこには意識的か無意識か、作為がまざる。
稀代の創作家である萩尾望都の自伝的手記。
そこに計算もなにもないと信じるほうが難しい。
竹宮惠子著『少年の名はジルベール』の整頓されて読みやすい大泉の思い出と違い、『一度きりの大泉の話』は
苦痛、苦悩、憔悴。
道に迷った臆病な少女が居処なく肩を落としているようだった。
グズだから。マヌケだから。気づかなかった。わからなかった。鈍感ですみません。
おどおどと小さな声で謝っている。
20代当時の萩尾望都は漫画の一コマに否定的な感想を言っただけで作品すべてどころか漫画家としての生き方を全否定されたと感じるような繊細さをもっていたという。
抑圧的な両親のせいで、自分を否定することが習い性になっていたともいう。
絵が上手くて親切で美人で売れっ子で大好きな友達だと思っていた、竹宮惠子先生……
当時はケーコタンとよんでいたのかな?
その人のことを敬称で語る。
素晴らしい人。才能ある人。明るくて如才ない知的な人。
そんな人から切り捨てられて、嫌われて。
悲しかった。
つらかった。
だから離れた。
忘れようと努力して、忘れられないけれど考えないようにして、避けてきた。
大泉のことは、永久凍土に埋めた思い出。
けれど2016年に『少年の名はジルベール』が発行され、若かったあの頃のことを聞きたがる人が寄ってくる。もうずいぶん昔のことなんだから水に流せと言う。和解したらどうかと言ってくる。
永久凍土の下で、傷はまだ鮮血を流しているのに。
なにも終わっていない、なにも解決していない。
永遠に続く痛みがそこにあるのに。
どうかわたしのことは放っておいて。
この分厚い本で言いたいことは、ただそれだけ。
ここからはわたしの邪推込みの読解。
花の24年組の代表、萩尾望都と竹宮惠子。
女性版‘トキワ荘’ 大泉サロン。
そういうビジネスをしたい人がたくさんいるのはわかるけど、ヘドがでる。利用される気はない。
勝手に『少年の名はジルベール』を出版した竹宮惠子のことを許す気はこれっぽっちもない。
「小鳥の巣」「トーマの心臓」を「風と木の詩」からの盗作扱いされたことは忘れない。
心血注いで魂をこめて作った唯一無二の我が子ともいえる作品を冒涜した罪は消えない。
決別後は「風と木の詩」を含む竹宮惠子の作品は読んでいないし、これからも読まない。
顔も見たくない。
「大泉の話、萩尾望都先生さえよければ、竹宮惠子先生はいつでもしていいと言ってる」ですって?
は?は?は?
どの口がそんなこと言えるの?
絶縁状を叩きつけてきたのはそっちなのに?
こっちの諒解もとらずに勝手に大泉の過去話(『少年の名はジルベール』)書くなんて、バンバンわたし(萩尾望都)の名前を出すなんて、仁義もなにもあったもんじゃない。
おかげで忘れたかった過去をほじくり返されて迷惑千万このうえない。
好きだったからこそ許せない。
悲しさのぶんだけ怒りは深い。
復讐のつもりはないけれど、傷つける覚悟でこの本を上梓した。
これがこちらからの絶縁状だから、もう二度と関わらないで。
ここからわたしの解釈と感想。
萩尾望都の作品をいくつか読んだことがあるけれど、本人も言うように‘少年愛’趣味は無い人だと思う。少年愛ぽいテーマであっても恋愛を感じない。‘少年’という存在の自由さが漫画として描きやすかっただけで、精神的な物語だと思った。
というか、わたしは萩尾望都作品からエロスな要素を感じたことがない。性欲が薄い人なのかな?と思う。萩尾望都で性的なシーンがある作品といえば『残酷な神が支配する』だと思うけど、どの場面にも快楽のカケラも感じなかった。
逆に、竹宮惠子作品からはつねにといっていいくらいエロスの気配がある。あからさまな性交場面が多いのはもちろん、美少年がただ黙って正面を向いているだけのアップ絵にすら色気を感じる。BLの開祖といってもいい立ち位置の人だけあって男×男という恋愛関係への情熱も感じるし、それとは別に少女や大人の女性を描いても色っぽいので、肉体への信頼があるのだと思う。
両名どちらもそこそこ齧った程度の浅い読者で、どっちの信者でもないわたしの印象なのだけれど。
竹宮惠子は現実的で生々しい俗人の感性があるんだと思う。
立身出世したい、エロいことしたい、美味しいもの食べたい、お金稼ぎたい、有名になりたい、少女漫画を認めさせたい、権利や社会的地位向上させたい……そういうの。
萩尾望都は浮世離れしている。
永遠の少女、という感じがある。
『ポーの一族』のエルゼリや『残酷な神が支配する』のサンドラのような、見たいものだけをみることができる目を持っているような気がする。
感性や考え方が違うから噛み合わないのも仕方がない。
それと、人間関係がここまで拗れたのは、間に他人がいっぱい入ってしまったからだと思う。
(とくに増山さんという人)
噂話とか伝言とかね。
あの子がああ言ってた。
あの人から聞いた話では。
みんなが言ってたけど。
っていうの。
そしてお互いに直接話をしないまま何十年も離れていたんじゃ、そりゃしょうがない。
萩尾望都はまったく仲直りする気がないみたいだけど、竹宮惠子が仲直りを望むなら、他人を介することなく直接萩尾望都に会って正直に話をしないとね。
覆水盆に返らず。
とは言うけども、本気でやってみなきゃわからない。
大泉の話で一儲けしたいとか共著出したいとかっていうビジネスの下心は捨てて、本気で友達として謝ることができたら、ひょっとしたらがあるかもしれない。
だって、絶縁状とはいえ『少年の名はジルベール』っていうお手紙の返信がもらえたんだからさ。
無視よりは前進してるんじゃないかな。