ホワイト餃子をご存知でしょうか。
千葉県野田市の本店をはじめ、現在北海道から鹿児島までの26店舗を擁するホワイト餃子グループで販売されている餃子です。
焼き小籠包のような丸いコロコロとした俵形で、熱湯で蒸し焼きした後、たっぷりの油で揚げ焼きする。
これがビールに合う。
お店にはいつも行列ができています。
お店の貼り紙で見た記憶では豚肉、白菜、キャベツ、玉ねぎ、ニラ、ネギなどのほか、チーズなど、多種多様な具材が使用されている、中国北部だかモンゴルだかがルーツの餃子です。
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ホワイト餃子は安いので、高校生が部活帰りに、部活単位で何百個もの量を平らげては壁の記録を書き換える。
私の高校でも男子生徒たちのソウルフードで、数年前にはホワイト餃子同窓会が開催されたほどだ。
冷凍餃子は持ち帰りができて、わが家も冷凍庫に常備している。
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ホワイト餃子は夫の好物でもあった。
アメリカに赴任するとき、日本で最後に食べたいとリクエストしたのもホワイト餃子だった。
結婚当時夫は全く料理ができなくて、電子レンジでご飯を温める方法も知らなかった。
なのにあるとき冷凍のホワイト餃子を買って帰ってきて、今日は自分が夕飯を作ると言い出した。
包み紙に書いてある調理方法を見ながら、まるで理科の実験をするみたいにおごそかに準備をはじめた。
隣のリビングでテレビを観ながらダイニングキッチンの物音に耳をそばだてていたら、尋常じゃないレベルの悲鳴が聞こえた。
行ってみると天井に向かってどーんと火柱が立っていた。
どうやって消火したのか覚えていないけれど、以来夫は料理をしようなんて言わなくなった。
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熱湯と油と火を使うホワイト餃子の調理はそれなりの注意が必要だ。
私も一度、熱湯でグラグラした餃子のフライパンを宙に舞わせ、床にぶち撒けたことがある。
あろうことか遠方から集まってくれた友達に振る舞おうとしていたときだった。
気を取り直して焼き直した餃子を食べてもらったけれど、そのときの話をするときはみんな、「餃子が飛んだパーティ」、って言う。
不本意です。
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夫の赴任に帯同するかたちで新卒から10数年勤めた会社を退職した私は、帰国後、専業主婦としてつつましく暮らしていた。
9月の、まだ残暑厳しいときだった。
クーラーをつけ、テレビをつけて家ですごすうち、頭のなかでお金がちゃりんちゃりんと流出してゆく音がする気がした。
主婦としての資質もなければ得意料理があるわけでもない。
家にいるこの時間を、1円でもよいからお金にしたいと思うようになった。
あるとき車でホワイト餃子の野田本店まで冷凍餃子を買いに出かけた。
本店に行くのははじめてだった。
今でもそうなのかわからないけれど、その頃本店のメニューは餃子とビールのみでご飯も出していなかった。
私の記憶では入口を入って左手がシンプルなテーブルとイスだけが並んだ飲食スペース、正面に和菓子屋さんのような販売スペースがあって、その奥におばあちゃんの家みたいなお座敷が見えた。
古い柱時計があった。
お座敷に並べた長方形のちゃぶ台の両側に、給食当番みたいな白衣と帽子をかぶった女性がずらりと並んで黙々と餃子を包んでいた。
働くってこういうことだと思った。
どことなく、とっくの昔に取り壊された父方の祖父の家に似ていて、懐かしい気持ちもした。
包みたい。
私もあの列に加わってホワイト餃子をひたすら包みたい。
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パートさん募集の貼り紙に、時給850円とあった。
来週電話をかけてみよう、と思い詰めて帰宅した数日後、元いた会社で担当していた営業部局で派遣社員として働いてくれないか、という連絡をもらった。
派遣社員の仕事を経て、元いた会社の子会社に就職が決まった。
あれから更に10年以上経っているけれど、ホワイト餃子本店で働く夢は、今もまだ、捨て切れていません。
↓ホワイト餃子のパートをあきらめて働き出した職場はこんなところで
↓こんなこともありまして
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ちなみに火柱以降意気消沈して料理から遠ざかっていた夫は、赴任先のロサンゼルスで職場の人たちにキャンプに連れ出して頂いた際、いわゆる男の料理のかっこよさに目覚めた。
キャンプで肉を焼くことから始まって、そこからまたときどき料理を作ると言うようになった。
レパートリーは、カレー、麻婆豆腐、ミートソース、そしてホワイト餃子。
いずれもレトルトと冷凍食品を、箱とか包み紙に書いてある作り方の通り作るだけの料理だったけれど、子どもたちに美味しいって言われて大いばりしていた。
もう火柱をあげることもなかった。