現代哲学の最前線
ロールズの貢献は、法制度と倫理学という二つの分野において、実体のある正義論を復権させた点にある。多くの哲学者がアカデミックな解釈や体系化にとどまってきたのに対し、ロールズは民主主義社会における正義の具体的原理を提示した。すなわち、人々が互いの幸福のために協力しようとする「原初状態(original position)」と、立場や能力を知らない「無知のヴェール」を設定することで、公平性と平等主義に基づく正義論を構築し、功利主義に対抗したのである。
これに対し、厚生経済学者、すなわち功利主義的福祉理論の立場から反論がなされた。ケネス・アローは、ロールズの理論が個人の自由の制限につながると批判した。ジョン・ハーサニは、無知のヴェールの下では最悪の状態を最小化しようとするマキシミン原理が選択されるとする点に矛盾があると指摘した。例えば、二人の患者がいて、一人は軽症、もう一人は不治の病である場合、最も不幸な人にすべての医療資源を投入しなければならなくなるという問題である。
これに対するロールズの再反論は、個人単位ではなく、社会的に不遇な状況に置かれている集団と、そうでない集団というレベルで考えなければ意味がないという点にある。個人の事例に還元する議論は不適切である。また、能力のある人がその能力を完全に個人の努力だけで獲得したわけではなく、その背後には社会的・制度的環境が存在する以上、能力の成果は社会に還元されるべきである。そのような自発的な絆の強い社会を実現することは、単なる再分配以上に正義論にとって重要である。
リバタリアンからはロバート・ノージックが反論を行った。ノージックによれば、国家は歴史的に、①正当な獲得の自由、②自由な交換、③不正の矯正という三つの役割を担うようになった。したがって国家権力はこれらに限定されるべきであり、再分配によって結果を調整することは誤りである。再分配は、同じ志を持つ個人や集団が自発的に行うべきだとされる。
コミュニタリアンは、行き過ぎた個人主義に対抗し、共同体的価値や公共性を重視する立場から批判を加えた。マイケル・サンデルは、無知のヴェールによって人種、性別、階級などをすべて捨象し、理性的合意を目指すロールズの方法は、熟議民主主義が前提とする多様性を否定してしまうのではないかと問いかけた。
さらにサンデルは、自由主義者も功利主義者も、「合理的に正しいことが善に先行する」という前提を共有していると批判する。しかし実際の法制度は、その国の主流派が持つ「善」に基づいており、価値中立的ではない。例えば、西洋諸国の憲法におけるキリスト教の扱いがそれを示している。つまり、現実には非中立的な立場から制度が形成されているにもかかわらず、それを否認する態度が問題なのである。アメリカ社会には中間組織が厚く、人々が共同体にコミットする共和主義的伝統が存在しており、その共通善への回帰が必要だとされる。
サンデルの批判に応答する形で提示されたのが、ロールズ後期の「政治的リベラリズム」である。多元的民主主義国家においては、異なる価値観や包括的教義の間で「重なり合う合意(overlapping consensus)」を形成することで、共に正義を実現できるとされる。この理性による正義の構想は、ハバーマスの熟議民主主義論に接近する。ハバーマスは、利害調整による妥協ではなく、理性に基づく合意のみが民主主義的決定の正当性を支えると主張した。この流れは、ジョシュア・コーエン、エイミー・ガットマン、ジョン・ドライゼクらによって熟議民主主義論として継承されていく。
潜在能力アプローチからもロールズ批判が行われた。アマルティア・センは、ロールズが結果の分配にのみ注目し、分配された資源を人々が実際に活用できるかどうかを軽視していると指摘した。たとえ再分配がなされても、能力を発揮できない環境に置かれていれば、公平性は達成されない。重要なのは、個人が能力を発揮できる多様な選択肢を提供することである。
マーサ・ヌスバウムは、最低限保障されるべき潜在能力のリストを提示した。これに対して、ノルウェーのマルクス主義者ヤン・エルスターは、「すっぱいぶどう」の比喩を用い、従属的慣習の中で形成された選好が変革を拒む可能性、すなわち適応的選好形成(adaptive preference formation)の問題を指摘した。それでもなお、重なり合う合意に基づく潜在能力リストは、多くの途上国で受け入れられ始めている。
アリストテレスの『ニコマコス倫理学』には、人間を人間たらしめる機能のリストが示されており、プラトンの理想主義に対して現実的解決を志向する思想の起点となっている。
ジョージ・ハーバート・ミードは、個人は社会的相互作用によって形成される存在であり、絶対的な個は存在しないとした。個人の価値観もまた社会的に構成される。
ハバーマスは、コミュニケーションを通じて社会的主体が普遍的価値、すなわち重なり合う合意を形成できると考え、分析哲学と主体性や相互作用を重視するドイツ社会哲学との統合を試みた。
ウィトゲンシュタインは、真理は政治、文化、部族などの集団に固有の言語ゲームの規則に基づいて形成されるものであり、普遍的真理は存在しないとした。規則を普遍化すれば合意は可能なのか、という問いが残される。
近代合理主義は、主体が把握可能な普遍的論理のみを対象とする哲学を、プラトン以来絶対視してきた。これに異議を唱えたのがヘーゲルであり、自我は無意識を含め、既存の秩序を破壊し再生する創造力によって動かされていると考えた。この流れの中で芸術や文学の重要性が高まった。理性を超克しようとする反哲学的傾向はニーチェによって強められたが、分析哲学への直接的批判ではなかったため、影響は限定的であった。無意識を中心概念として理性中心主義に反旗を翻したのがフロイトである。
さらに、ヤスパースやハイデガーによって、普遍的真理を否定し、個人固有のあり方を重視する実存主義が台頭した。ヤスパースは精神病理学を通じて、限界状況が自己意識の変容を促すとした。ハイデガーは、時間性の中で存在を捉える視点の重要性を示した。
フランクフルト学派は、普遍性を求める圧力が強まると、個人の非文明的本性が暴走する危険があると指摘した。マルクス主義や欧州社会民主主義は理性による抑制を試みたが、その理性自体が普遍性を押し付けるという矛盾を孕んでいた。このような問題意識は、北米の純粋理論志向の分析哲学には乏しかった。
構造主義は分析哲学への批判として現れた。レヴィ=ストロースは、いかなる文化にも固有の制度や慣習があり、普遍的理性主体は存在しないとした。理性の主体は構造と不可分である。フーコーは、主体を規定する歴史的アプリオリを明るみに出した。
ポスト構造主義において、デリダはレヴィ=ストロースを批判し、ある構造が別の構造によって規定されている可能性を無視していると指摘した。自己認識もまたエクリチュール、すなわち書かれた記号の体系に依存しており、透明な自己意識など存在しないとされる。
ドゥルーズとガタリは、精神分析の基礎とされるエディプス・コンプレックスが後付けで構成された虚構に過ぎないと批判し、精神の多様性を強調した。その結果、ツリー、リゾーム、ノマド、リトルネロといった新たな概念語彙が生み出された。こうした潮流の中で、理性と主体の再統合を目指したのがハバーマスであった。
ロールズ、リバタリアン、フランクフルト学派・ハバーマス、現象主義、構造主義、コミュニタリア、厚生経済学ぐらいまでは割と馴染みがあり、復習の意味もあってためになったが、ポスト構造主義以降は具体的な事例でも出してもらわないとなかなかピンとこないというのが正直なところだった。