俳句知るにつけ見るにつけ | ペーパー社会福祉士のうたかた日記

ペーパー社会福祉士のうたかた日記

社会福祉士資格をとるまでと、とったあと+α。浮世のつれづれ、吹く風まかせの日々。

プレバト!を毎回毎回見ていて、

よくまあ十七音でこんだけのことを

完璧に描写しきれるもんだなあと

いつも感嘆する以外に言葉がない。

 

東国原氏の俳句を添削していわく、

 

向日葵や畜魂二十九万頭

 

とやったのには、唸り声が出た。

 

父は俳句を長らくたしなんでいた。

飯田龍太が好きでよく読んでいた。

 

まだ父が四十代だったころか、

夏、単身赴任先から帰京してきて、

庭の掃き掃除をしていたとき、

龍の髭の実がころんところがった。

父は、「あ、」と言った。

声にもならないささやかな気づき。

 

たったそれだけの一瞬を、

父は十七音の詩にしていた。

 

帰省して箒の先に龍の玉

 

夏井先生が、口をとんがらがして、

映像、映像、と言っているのは、

このことだろうなあと思っている。

 

カタログの通販生活が連載している、

俳句生活」なるサイトがおもろい。

 

何がおもろいって、

わしって趣味悪いとは自省しつつ、

入選作の天・地・人とあわせて、

だめなやつも載っけているところ。

「今月のアドバイス」ページ。

 

なんかモノスゴイ俳号をもってて、

目いっぱい凝り倒してつくった作が、

悪手の事例にあげられていたりする。

 

手練れの作品も素晴らしいけれど、

じゃない方を読むのも勉強になる。

川柳と区別がついてないのとか…

 

生前、父がよく言っていた。

「見てて恥ずかしいじゃないか」

芝居も、詩も、歌謡曲も、絵画も、

見ていて恥ずかしいものを嫌った。

 

自分に酔っているような作品や

下手の横好きは裏でやれみたいな、

ジジイのツンデレの極みだった。

冷静で客観的で、事務的で、

公務員の鑑みたいな人物である。

 

その父が、

かたくなに封じ込めた自らの感情、

抒情、暮らしや呼吸の一片を、

十七音という極限の文字数の中で

自由に解き放っていたことを思うと、

 

「俳句なんかに足を踏み入れたら、

いろんな意味でたいへんだぞ」と

甘美な不安にソソラれるんである。

 

「あ、これ、詩になるな」

「俳句になるな」と思う瞬間は、

日常の中で枚挙にいとまがない。

 

地元の花屋さんで、

店主が今どき、鼻眼鏡をしていて、

珍しいなあと見とれていたら、

「今日は向日葵が入りました」と

ボソッと告げた瞬間とか、

 

滝のしぶきに向かって手を合わす

ご夫妻のお揃いのリュック、

強風に御御籤が棚ごとあおられて

羽ばたいているように見えたこと、

 

炎天下、逃げ水が映える道を、

ウーバーイーツのチャリンコが、

傍らをあっという間に過ぎ去って

あっという間に点になったこと、

 

ベランダから神宮の花火が見えて、

TVと同じ花火が上がってること、

 

などなど、

すべて「詩になる!」と思うけど、

どーやって十七音で言い切れと?w

 

つくってみるのは恐ろしいけども

読んであれこれ考えるのは楽しい。

もっぱら鑑賞にとどめるのみである。

 

関東地方は豪雨の火曜日、

皆さまどうぞお気をつけて。

夜はオールスターですよ!

 

龍の玉升さんとよぶ虚子のこゑ 龍太

 

 

ricorico1214