お花見のもつ意味、グリーフケア | ペーパー社会福祉士のうたかた日記

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社会福祉士資格をとるまでと、とったあと+α。浮世のつれづれ、吹く風まかせの日々。

今年も何度かお花見に行ってきた。

駅までの道すがら、車窓、公園、

遠慮なく、容赦なく、自然に従って

咲き誇るソメイヨシノはうつくしい。

 
 

昔はお花見文化とまったく無縁で、

酒盛り含めて、むしろ苦手だった。

なにしろ冷えるし、夜桜は怖いし。

何が楽しいのかもわからなかった。

 

それが、

開花宣言を待ち焦がれるようになり、

開花したらしたで、いつ行こうか、

雨か晴れかとそわそわと浮足立ち、

足取りも気持ちも文字通り踊るよう。

 

いつからかなあ、とぼんやり考えて、

あ、これだ、と思ったのは、

死別悲嘆と密接につながっている。

 

遺族は、というかわたしは、

死別悲嘆から回復する過程にあって

故人との積み重なる思い出を

何度も何度も狂ったように反芻する。

 

中でも

ひときわ繰り返されるのは、

季節ごとの行事と風景だ。

とりわけ春のこの時期はつらい。

 

暖かい陽射しもやわらかい息吹も

花も木も輝きだすことは、

故人のあけた空洞の大きさ深さを

照らし出す機能しか持たなくなる。

 

悲嘆の初期はそれがもうつらくて、

苦しくて苦しくて、

フトンかぶる以外にはナンも

やってられないんだけども、

 

もがいてもがいて、

あがきにあがいて、

ただただ生きている日を過ごして、

 

気づくと、安らぎにかわっている。

 

学生時代の親友を喪ってからも

思い出すのは最後に共に見た桜だ。

 

一緒に笑って飲んだくれて眺めた

川面に浮かぶ花弁の光のちらつき、

傾けていたシャンパンの色まで

眼の底から鮮やかに浮かんでくる。

 

そして、

 

最後に一緒に桜を見てよかった。

華やかな思い出があってよかった。

病床に喘ぐ奴だけが奴ではなくて、

それ以外の大半がすべてだと思う。

 

 

人はいつか死ぬ。

 

それは明日じゃない、今日じゃないと

思っているのが誤りなんであって、

すぐそこに、背後に、隣に、目前に、

死は待っている。

 

だから、

大事な人とは桜をみておくべきだ。

何にもはばからず言ってよいのなら、

何があっても見ておくべきだと思う。

 

来年、明日なんてのんきな日々は、

二度とないかもしれないから。

 

晴れた青空にこれでもかと栄える

満開の桜の木の下をその人と歩く。

語らう、笑いあう、心からくつろいで、

 

解放と自由。

日常と切り離された時間を過ごす。

満たされる。満ち足りる。

 

信仰に近い感謝、敬虔な祈り。

このつながりが、どうかできる限り、

いつまでも続きますようにと。

 

それだけでいつか自分が救われる。

 

 

いつ、どこの、

どんな桜であっても、

そのときまったく気づかなくても、

必ず悲嘆の回復の一助になりうる。

少なくともわたしはそうだ。

 

 

よい日を。

よい一週間になりますよう。

 

ricorico1214