なぜ抽象的思考が必要なのか2 | ペーパー社会福祉士のうたかた日記

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社会福祉士資格をとるまでと、とったあと+α。浮世のつれづれ、吹く風まかせの日々。

もちろん、こういうことを書くときは、
自分がいま一番be upsetなワケでw
誰かや何かを批判したり反証したいのではなくて、
強いて言えば強い自戒をこめてなのだけども。

抽象的に物事を考えるということは、
ある物事から思考を分離させ、
思考だけをまとめる力、と言い換えてもいい。

ある事象の特徴ABCがあったとして、
その特徴の類似点と相違点を、
頭の中で自由に結合させたり分離させたりする。
そのことから、類似したA’B’C’だけでなく、
まったく新しい着眼のDEFが、見えてくる。

これは、社会福祉士に必要というだけでなく、
社会人として、組織に、社会に貢献したければ、
努力してでも、もっといた方がいい能力だと思う。

抽象的思考は、ひらめきを喚起する揺籃である。
産声を上げたときは単なる思いつきや衝動でも、
抽象的思考の中で、新しい思考や理想に醸造される。
そして、新しい刺激となって新しいインスピレーションを生む。

社会人と、この抽象思考と何の関係が?というと、
データを読む力の有無に、大きく関わってくる。

データを読むというのは、
数字を見て、思考を働かせるということ。
思考を働かせるということは、結合と分離の中から、
今までにない方向やperspectiveから、
事象を分析することができるということだ。

もしこの努力を怠ったとすると、たとえば、
目の前に要介護者がいて、今とても困っている。とか、
ウチの銀行、預金が少ないな。顧客を増やさなきゃ。とか、
そういう具体的状況は理解できても、

全国所属部門別常勤保健師数データを見て、
ある銀行の支店別月別利用状況調査で、
大型ショッピングモール内支店は、
高額ローン利用者が少ない、という結果を見て、

へー、そうなんだ…(黙 となる可能性は高い。
頭の中で、だからなんなんだとか、どうしてだろう、とか、
関連性や問題点を考察した分離や結合ができない。
これは、社会人としても、組織にとっても、
「成長」という意味において、致命的なことになりかねない。

世の中をすべて具体的な物語で理解していると、
脳みそが本来持っている「考える力」が著しく劣化する。
他人の具体的事例と方法ばかりをまねるようになる。
情報量と知識量の違いに気づかない。
要するに、
自分は松下幸之助や井深大ではない、ということがわからない。

だから、事象をテレビドラマのように理解してはいけない。
理解は体感ではなく、体感は共感ではない。
体感をいくら共有しても、
それは二次的に再生された自己内のリアリティに過ぎず、
「理解したつもり」であり、リアルな本質には、近づけない。

自分を含めた抽象的客観的分析、メタ認知ができずして、
新しいことやモノは、いつまでも生まれないのである。

…メタ認知で思い出した。
試験範囲なんだコレ。

試験科目『心理学理論と心理的支援』の中で、
メタ認知、って出てくる。
実はこの用語、求む具体的説明!の中でも、
民法の「善意・悪意」についで、1、2を争うモテモテぶり。
自己覚知とどう違うんですか、とか。

具体的なメタ認知、ってさー
もう、「依存した自立」というのと同じくらい、
日本語として不成立でしょう。

とは言えないので、ものっそ苦し紛れに、
難しい本を読むと、難しいと感じますね、
それがメタ認知です、とか言ってしまった。
自己嫌悪…


で、深夜モクモク、じゃがいもと逃避格闘。
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心なしか?りこピグも若干キレ気味。
「こんだけ育てて芽つき1コかよ!」w
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