No204・父の命日、日記から「小児麻痺からアルツハイマーへ・・・・ | rico8001のブログ

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腎盂癌、膀胱がん、根治不能尿路上皮がん、肺転移、抗がん剤で、治療中

4月6日。父の命日

●最後まで意識明晰で胃瘻を拒否して、やせ細って肉体を使い果たした老衰で旅立った。原稿用紙に書かれた幾編かの、日記の取りまとめがある。その中のファイルに綴られた一編が「太平洋戦争、戦中、戦後の備忘録」。戦中の昭和16年出征から戦後の昭和23年まで忘備録。作成したのは1968年、昭和43年で父は48歳の時間になる。仕事を手伝いながら20歳の私は、離れの納屋に根倉としていた。あの忙しい農業や海苔の仕事をしながら、日記をたどって書いたとは知らなかった。

昭和21年夏に生まれた姉は、我が家で両親が初めて授かったこどもです。翌年の誕生日の近いとき発熱し近く医者に診てもらうが、処方薬が乏しく解熱、冷やすことしかなかった。

世相は、敗戦国日本、物品はすべて統制下、切符制、点数制、配給制。「タバコはひと月に何本、マッチは小組合の戸数でひと月に何本、農家でもコメも食うものも残せず強制出荷、人数分の配給割り当となる。完納しない農家は家じゅう探し回られて、強権発動で取り上げられる・・」

「なお現金は一人百円しか持つことは出来ず封鎖されてしまっていた。戦前のように浅利貝を取って売買することはできた」

「22年6月、風邪と思っていた子供が40度の発熱が繰り返されて、軍医帰り医者に診てもらうと、戦地でマラリヤ感染を疑われて私の血の検査もされる。戦地から持ち帰った肺炎の注射を打ってみると、熱は下がり肺炎だったと安心した・・」

しかしその後は手首が動かず、肩も動かなくなった。町の病院の大学病院からのレントゲン検査の巡回を紹介される。しかし一日遅れで検査は受けられず、熊本市内の整骨医院をパン屋さん紹介され駅舎へ向かう。駅舎では知り合いのカズノリさんに会い、大学病院をすすめられる。若い夫婦まだ誕生前の姉を抱きかかえて、焼け跡の大学病院診察棟で小児マヒの診断を受る。翌日入院の手続きをして帰宅した夜に、座ることができなくなった。入院は段山兵舎後、蚊帳に毛布、自炊の食料などもっての入院。病舎で見たのは36名の小児マヒの子どです。父は朝な夕な海へ出て浅利貝を取り自転車で売りに出かけます。母は娘の看護の日々です。父は、コメや食べ物は闇の商売と間違われないように、3日ごとの病院通いです。それ以上は治るようではないと、右腕マヒのまま半年の入院生活は終わります。

「初子から不具者にはしたくない。次はお金である。まだ保険などもなく事故金ほどしか出なかった。どんな高い薬でも大学病院では薬局に売てあるから買ってきたら、注射を打ってやる。証明書をもらい高い薬も仕方ない。だがそのお金も封鎖されていて、浅利貝、シャコ堀りした売り買いして現金を得た。その金を病院にもっていき、リックにはコメを一升か二升、マキなどもっていった。コメをいっぱい持っていくと警官に捕まることになる。昼間は働いて夕方に汽車に乗って病院へ行き、朝の一番の汽車で帰った。・・・時代が時代なだけに、今の人には想像できない苦労をした。・・・」

昭和21年7月2日誕生

昭和22年6月30日入院する

昭和22年12月27日退院する

毎月毎月、近くの足手荒神社のお参り、近くの温泉湯治のなど祈り養生の日々を続けた。立てること、歩くこともできるまでになり、普通の子供と変わりなく育った。

「小学校に入学しても雨の日、雪の日、風の日と、人に負けず家の者の迎いもあまりしたこともなかった。膝はいつもキズばかりでしたが、明るい子供として育ったことが私どもにとって何よりの慰めでした」父の日記から

●ぶら下がってマヒした右腕は動くことはなく成長です。二十歳の成人式の折には毎日書道展に入賞、町の公民館に寄贈し成人式の挨拶をします。何ら不具合を感じせず大学を卒業します。

●姉の小児マヒ感染から15年後の1961年(昭和36年)、全国的に小児マヒ感染が始まります。全国のお母さん方のワクチン接種運動が始まります。姉にはワクチンが打てるわけではないのですが、結婚し3人の息子にワクチン接種となります。子育ての合間に書家、文筆をつつけます。

1993年第12回潮賞ノンフイクションの部

『いのちの約束」で受賞

選考委員は、猪瀬直樹 鎌田聡 筑紫哲也

●ソビエト崩壊でポリオワクチン製造中止

ワクチン原価は8円と知り「ポリオ生ワクひとくち基金」設立

集まったお金をモスクワ郊外のポリオ研究所に、1992年夏に集まった1300万円を届けます。ポリオワクチン製造再開です。研究所にあった写真は、日本の母親が政府にワクチン緊急輸入を訴える一枚です。この母親たちの運動は、日ソ合作映画「未来への伝言」栗原小巻プロデュース、主演。姉は栗原小巻さんと近しくなり、彼女のお芝居を見ていました。自身も伊藤野枝をテーマに脚本を書き、一夜の芝居の野枝を演じる役者です。

●地方局のテレビのコメンテーター、ラジオのパーソナリテー、ポリオ基金の講演活動、止まらない絶好調の人生です。両親も健在だった祖母も、涙を流して喜んでました。

●姉は60歳に近くなった時、アルツハイマーの宣告、言葉を紡げなくなった姉は、すべての活動から退場します。

祖母は去っていましたが、両親は嘆き悲しみました。やがて育てた親も理解できなくなり、医療介護施設入所です。両親の死も全く理解できず、すでに径鼻経管栄養です。パンデミックコロナになって全く面会をしていませんが、時折り姉の息子から届く写真に悲嘆します。10歳まで遊んだ彼女の孫は、昨日からDr研修の始まりです。巣立つ孫の挨拶面会で、孫の姿が見えたか・・・

4月6日、父の命日の報告は続きます

妹から届いた好物のお菓子、ジュンくんのトマト。花瓶はお洋さんの花畑に咲いた、花たちです。

拝啓 父上様、あなたの日記に免疫頂いてます

 

●下手な文章で、ご勘弁ください。

 お読みいただき感謝します。

 拙文お読みいただき感謝します

 誤字脱字はご容赦ください