最近、朝井リョウ氏の「正欲」という作品を読みました。さらに、この作品が映画化されていることを知り、その世界にさらに深く没入する機会を得ました。

 

この作品には「読む前の自分には戻れない」というキャッチコピーがありますが、私には特に新鮮な感覚ではありませんでした。

 

なぜなら、私は常に相手の気持ちを完全に理解することは不可能だと思っているからです。

 

私たちは、他者になり変わることはできませんし、完全に同じ感情を共有することも不可能です。

 

だから、「その気持ち、わかるよ」と安易に言うことはできません。

 

そして、多様性、多面性の時代と言われる今、他者の個性を「認める」「受け入れる」という表現には違和感を覚えます。

 

人はそれぞれ異なるもので、一つの基準に当てはめることはできません。

 

だからこそ、私たちはまだ知らない世界や事実がたくさんあるという認識を持つことが重要です。

 

人はそれぞれ独自の人生を歩んでおり、多様な経験によって自分の世界を形成しています。

 

そして重要なのは、人それぞれの特性や考え、志向を持ちながら、生きづらさや居づらさを感じない社会をどう作るかということです。

 

小説や映画は、私たちが経験していない世界を見せてくれます。それが現実になった時、私たちはどう思い、どう行動するかが重要です。

 

一人一人が自分の特性を認識し、自分らしさを大切にする。そして、それによって生きづらさ、居づらさを感じない。

そういった世の中にしなければいけないと思います。

みなさんはどう思いますか?

今、私たちは多面性の時代に生きています。

 

インターネットの一般化により、さまざまな人々が見えるようになり、多様な存在を受け入れる時代と言われています。

 

しかし、私はこれを単なる時代の流れとは捉えていません。むしろ、人々が本来持っていた姿へと戻りつつあるのではないでしょうか。

 

人は元々、一人ひとりが異なる個性を持つ存在です。

 

確かに、学校のような場では、一括りにして教え、評価することが効率的ですし、多人数を管理する上で有効です。

 

しかし、その一方で、このような方法は個性を抑圧し、個性を出すことが許されないという感覚を生み出してしまいます。

 

今、私たちは誰もが情報を得て、自分自身を表現できる時代になりました。

 

これは時代が変わったからではなく、私たちがやっと本来の姿に近づきつつあるということなのです。

 

それぞれの個性が認められ、表現されることで、社会はより豊かで多様なものになっていくでしょう。

 

この多面性の時代において、私たちは自分自身を見つめ直し、自分の個性を大切にすることができます。

 

自分だけの色を持ち、それを大切にすること。それが、私たちにとっての喜びでもあるのです。

 

自分自身の多面性を受け入れ、表現すること。それが、私たち一人ひとりが持つ個性の真価を発揮することにつながるのではないでしょうか。

初対面の人を見た目で判断することは、多くの人にとって自然な反応です。

 

実際、私自身も他人を見た瞬間に、無意識のうちに「この人はこういう人だろう」とイメージしてしまいます。

 

しかし、これこそが私たちが注意すべきポイントです。なぜなら、人は見た目だけでは計り知れない存在だからです。

 

見た目は、その人の性格や経験、能力を完全に表現するものではありません。特に、自分自身を表現するのが苦手な人が多い中、見た目だけで人を評価することは、その人の真の姿を見落とすことにつながります。

 

確かに、見た目に基づいて人をイメージするのは避けがたいことです。しかし、それで人を決めつけてしまうことは避けるべきです。

 

人の外見は、その時々で変わるもの。何より、一人一人の人生は、単純なラベルや一言で表現できるものではありません。

 

「この人はこう見えるけれど、実際はどうなのだろう?」

このような問いを自分自身に投げかけることが大切です。

 

彼らの得意なこと、苦手なこと、特長は何か。これらは一見すぐには分からないことも多く、また、本人が言うことが必ずしも全てではありません。

 

私たちは、人を見た目だけで評価することから一歩踏み出し、その人の独自の人間性を真剣に見つめる必要があります。

 

表面的なイメージを超えた、深い理解には時間と努力が必要ですが、それによって得られるものは計り知れません。

 

人は見た目で評価できるのかもしれませんが、それはあくまで一部分に過ぎません。私たちは、見た目を超えた、人の内面の豊かさを見つめることで、本当の意味で人とつながり、理解し合うことができると思っています。自分への戒めも含めて。

私たちは生まれながらにして、無限の可能性を秘めています。

 

しかし、その可能性を完全に発揮する前に、私たちはしばしば「自己」というものを見失ってしまいます。

 

なぜなら、私たちは幼いころから他人と比較され、他人からの評価によって自分を形作ってきたからです。

 

その結果、真の自己表現をすることなく、自己実現を目指してしまうのです。

 

自己実現とは、自分がどうありたいか、何を成し遂げたいかを実現すること。だが、その前に立ちはだかるのが自己表現の問題です。

 

自分が本当に何を望んでいるのか、本当の自分はどのような人物なのか。これらの質問に答えるためには、まず自分自身を深く理解し、表現する必要があります。

 

他人との比較、他人からの評価。これらは時に私たちを窮屈にし、自分本来の姿を隠してしまいます。

 

子どもの頃、私たちは無邪気に夢を語り、好奇心のままに行動しました。

 

しかし、大人になるにつれて、「こうあるべき」という社会的な枠にはまり、自分らしさを失っていくのです。

 

では、どうすれば自分自身を表現し、本当の自己実現に向かえるのでしょうか。

 

最初の一歩は、自分自身に正直になること。自分の感情、思考、願望を素直に受け入れることです。

 

自分が何を感じ、何を望んでいるのかを理解することが、自己表現の始まりです。

 

次に、過去の自分を振り返りましょう。子どもの頃の夢、好きだった活動。

 

これらはあなたの本質を映し出しています。そして、今、あなたが心からやりたいと思うことを、恐れずに追求してください。

 

自己表現は自己実現への道。本当の「私」を理解し、表現することで、初めて自分が本当に望む生き方を手に入れることができます。

 

あなたの内に秘められた無限の可能性を信じて、自分自身の声に耳を傾けてください。

予習という言葉を聞くと、多くの人が学生時代の苦い記憶を思い出すかもしれません。教科書を前にして、翌日の授業に備えるあの時間。

 

しかし、予習の本当の意味は、ただ事前に勉強することではなく、学びを深め、そして何よりも楽しむための準備と考えたらどうでしょう。

 

私自身、学生時代に予習を「勉強」と捉えていたため、その重荷を感じることがしばしばありました。

 

しかし、今振り返ると、予習は授業をより豊かにするための鍵だったのです。

 

予習をすることで、授業が単なる知識の受け取り場ではなく、自分の知識と先生の知識が交わる対話の場に変わります。

 

予習をしたことで、授業中に「ああ、これは昨日読んだ部分だ」と心の中で小さな成功を感じることができます。

 

また、「せっかく予習したのだから、この知識を使ってみたい」という気持ちが湧き、授業に積極的に参加するきっかけにもなります。

 

そう、予習は学びをアクティブなものに変える魔法のような存在なのです。

 

この考え方は、仕事にも当てはまります。

 

毎日の業務をただこなすだけではなく、事前に「こうしたらどうなるだろう」と想像を巡らせることで、仕事に対する意欲が湧いてきます。

 

そして、その予測が当たった時の喜びは、仕事の質を高めるだけでなく、私たちのモチベーションにも繋がるのです。

 

予習は、知識を詰め込む作業ではありません。

 

それは、授業や仕事、そして日々の生活をより楽しく、より充実させるためのスパイスなのです。

 

予習を「準備」と捉えるのではなく、「楽しみのための前奏曲」と考えてみてはいかがでしょうか。

 

学びも仕事も、予習を通じて楽しみながら、私たちの日常はもっと輝き始めるはずです。