わたしは誰でも得意なこと、可能性を持っていると思っています。

 

それは決してすごいもの、目立つもの、他の人にはできない珍しいものというわけではなく、自然とできるもの、苦もなくできるもの、何となく以前からできてしまうものです。

 

仕事でやっていることとは違うが、小さいころから絵がうまかった、劇の台本を好きで書いていた、マンガを描いていた、歌がうまかった、人の話をよく聞けるなど。

 

人それぞれあります。ないと感じているのは、本人が気づいていないだけです。なぜなら、自分が当たり前にできているものが得意なものだと認識できないからです。

 

いつも当たり前にやっているもの、何もしなくても言われなくてもできてしまうものがないか、振り返ってみて下さい。もしくは、周りの人に聞いてみて下さい。

 

自分にとっては当たり前でも、他の人にとっては当たり前じゃないこともあります。

 

その誰もが持っている得意なこと、可能性は、やっぱりそれが活かせる場所でこそ輝くものだと思います。

 

例えば絵が自然とうまく描けてしまう人が、セールスマンのような話すことをメインの仕事をやっていたり(この場合は、説明に絵を使うなどのやりかたもありますが)

 

話を聞くことを苦もなくできてしまう人が、販売員や講演など話す仕事をやっていたり。

 

もっともよい例が、入った会社が合ってなくて、早々に辞めてしまう、もしくはミスマッチに気づいてしまう。自分が活かされる場所ではないケースです。

 

適材適所という言葉はまさに、その人に合った場所を提供するということですが、では合う会社に入る人が増えるにはどうすればよいか。

 

それは、会社側の情報開示も必要ではないかと思います。

 

入社時には、入社者の履歴書や経歴書、入社試験で相手を知ることはでき、また募集内容によってどういう職種の人を入社させたいかを明らかにします。

 

それでも合わない会社になってしまうことがあるのは、別の視点があってもいいと思っています。

 

例えば、「当社はこういうことができる人を募集しています」とか、「字がうまい人いませんか?」とか、「整理整頓ができる人募集」とか。

 

職種や条件に加え、得意なことを募集条件に加えてみるのです。

 

そうすれば、「あ、自分は字がうまいって言われるからそれが活かせそう」だとか、「整理整頓が得意で、それをやらせてくれるなら入ってみたい」ということにつながると思うのです。

 

まずその人が得意なことをやらせる環境を用意できれば、その後また新しい一面がわかり、別のことができるかもしれませんし、少なくとも始めは得意が活かせるので、お互い安心できますよね。

 

自分の得意がわからない、可能性なんてない、のは、その場所があってこそ、輝ける場所があってこそだと思います。

 

自分自身で自然とできることを認識しつつ、受け入れる側も、それを活かせる場所を提供できる、それが噛み合ったときはお互いにとってとても良いことではないかと思います。

自分の存在意義ってなんだろう?

自分は存在する意義があるんだろうか?

 

そう言われたら、存在意義はありますよ!だって存在してるじゃないですか!

と言いたいです。

 

まず存在を認めて、じゃあ何をしようか、何ができるかを考えることだと思います。

 

その前提としての存在のあるないではなく、存在はある、じゃあどうするか。やるかやらないかを決めるのではなく、やると決めてどうやるか、ということだと思います。

 

じゃああなたは何ができるんですか?と言われると、答えはありません。ただ日々何ができるか、どうすればいいかは考えています。

 

この文章も、誰かのヒントになればと思って書いています。

 

何ができるかに答えはなく、日々変わってもいいものだと思います。一つ決まったらそれに向かうのもいいと思います。

 

なので、できることからやりましょう。どうやるかを考えましょう。

 

何のために生まれてきたのか、を考えるのではなく、生まれているのは意味があるから、その意味を形にするのが自分自身なんじゃないかと思います。

 

そうは言っても何ができるかわからない、そんなときは献血に行って下さい。

 

献血は無料でできますし、自分の血を、血が必要な人に届けることができます。

 

それも存在意義ですよね。

 

目に見えて成果がある、貢献したと感じることはないかもしれません。

 

でも、成果のためにやってるんじゃなく、自分ができることをやっていれば結果はいいんじゃないですか。

 

まずは自分の存在を認めましょう。そして、何をすればいいか、考えて行きましょう。

わたしの座右の書である「七つの習慣」の中で、「関心の輪」と「影響の輪」という言葉が出てきます。

 

関心の輪とは、自分の人生において関心のあることや気にかけていることで、影響の輪とは、自分の行動によって変えることができることや、影響を与えることができることとされています。

本の中で、わたしたちは関心の輪に集中するのではなく、影響の輪に集中すべきだと説いています。なぜなら、関心の輪に集中しても、自分の行動によって変えることができないことや影響を与えることができないことはたくさんあるからです。

 

つまりできることに集中して、できないことはなるようになるという心構えが必要と言うことだと思います。

 

日々を忙しく過ごしていく中で、このできることとできないことをきちんと分けることができず、できないことに心配し、悩んでしまうことがあると思います。

 

日常でできることと言えば、時間を守る、納期を守る、依頼されたことを守るなどがあります。

 

できないことと言えば、お客様や相手の反応、買ってもらえるかもらえないか、天候、予期しないアクシデントがあります。

 

自分のできることをやって、後はなるようになる。

 

時間を守って、説明することはして、それでどう反応するかは自分ではどうすることもできません。

 

自分が望む反応、結果になったことはコントロールできたわけではなくて、自分ができることをやった成果であるということです。

 

相手がどう思うだろう、どういう反応をするだろうと悩むのではなく、まずは自分ができることに集中してみましょう。

 

意外にそれができなくなっていることに気づくかもしれません。

 

 

 

すぐに決められる人はすごい。即断即決できる人は、判断力があって、仕事ができる人だ。

 

こんな話を聞くこともあるかと思います。

 

この即断即決、できると思われている人はそもそも、即断即決をしようと常に思っているわけではないと思います。(何かあったらすぐ決めようとしている人もいるかもしれませんが)

 

すぐに決められていることについては、決める場面にならなくてもいつもそのことについて考えているか、こういうことがあったらこうしようと選択肢を思い浮かべているか、何らかの形で事前準備、事前知識を用意しているのではないかと思います。

 

わたしも、すぐに決められるときは、選択肢が理解できるもの、詳しく聞かなくてもわかっているものに限ります。

 

反対に、よくわからないもの、あまり馴染がないものについてはやっぱりすぐには決められません。

 

自分は決められない、優柔不断だと思っている人は、それは悪いことではなく、単に決断するだけの要素がない、決定的な何かがないというだけだと思います。

 

普段から慣れているもの、いつも見ているもの、考えているものであれば、関係あるものについてはいつでも即決できるということなんだと思います。

 

目的はすぐに決めることではなく、良い選択をすることです。

 

自分があまり決めることが得意ではないと感じているならば、どこまで知れれば決められるのか、何がクリアになれば決断することができるのか。

 

その引っかかる部分、自分の基準については認識しておくことだと思います。

 

すぐに決められない、だからこそ慎重に、じっくり良い方法を探っている。

 

何も悪いことではありませんね。

正しい絶望という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

 

正しい絶望とは、自分の力ではどうにもならないことに気づき、希望を捨てること。しかし、それは同時に、希望への執着から自由になることとあります。

 

言い方を変えると、現実を受け止める、自分で何とかするという思いをなくすということでしょうか。

 

この言葉を聞いて、スラムダンクの山王戦前日の様子を思い出しました。

 

知らない人もいると思うので簡単に言うと、翌日に最強の相手と戦うことを控えて、しっかり相手の実力を受け止め、恐怖を感じたのち、それを乗り越えて試合に臨むというシーンです。

 

スポーツに限らず、仕事でも、人との関係でも、難しいと感じることはあると思います。

 

そんなとき、正しい絶望をする、すなわち、自分ひとりで何とかするのではなく、周りの人を頼る、力を借りて乗り切るということだと思います。

 

人には必ずその人の持つ特長、可能性があります。

 

一方で苦手な部分、弱い部分もあります。

 

人というのは、お互いの強みと弱みを補完し合いながら、助け合うことができたからこそここまで発展してきたとされます。

 

自分ひとりで何とかしよう、どうすればいい、何かできないかと考えるのではなく、正しい絶望をして(=周りの力を借りて)、現状を乗り切ろう。

 

そんなことを現している言葉なのではないかと思いました。