発達障害って、
誰のための分類なんだろう?
そう思いませんか?
発達障害。
グレーゾーン。
自閉症スペクトラム。
ADHD、ASD、LD…。
それを聞くと、
どこか「医学的」で
「専門的」で
「客観的」な言葉のように聞こえるかもしれません。
でも息子が成人して、
自己啓発を学ぶようになって、私はこう思いました。
「それって、誰のための分類なんだろう?」
発達障害って、
ほんとうは“ただの違い”なんじゃないかって。
社会にとって
「扱いやすくするため」に、
枠をつくってラベルを貼っただけなんじゃないかって。
たとえば、
音に敏感だったり、
人との距離感がうまく掴めなかったり、
空気が読めなかったり。
でもそれって、
健常とされる子どもにもよくあることですよね?
むしろ、今の社会が
“普通”をすごく狭く決めすぎてしまってるんじゃないかって思うのです。
空気読めなんて死語ですがね、、、
うちの子にも、
いわゆる「診断」がつきました。
はじめは戸惑いました。
「この子は、これからどうなるんだろう?」
「私の育て方が悪かったのかな?」って。
夜、ひとりで泣いてました。
でも、あるとき思ったんです。
この子は、
ずっとこの子のままだった。
名前がつく前も、
ついた後も、
なんにも変わってないんだって。
分類されたからこそ、
支援や制度につながりやすくなるという現実も、たしかにあります。
でもその一方で、
ラベルが「枠」や「制限」になることもあるのです。
それを見て、大人たちが安心する。
「この子はこういう特性だから、こう接しましょう」
「これは障害だから仕方ない」
そうやって、どこか「理解したつもり」になってしまう。
この子はこういう子、
という枠や制限は決めつけとなり、
その子の持ち味
つまり個性=力を隠してしまうことにもなります。
でも、子どもたちはもっと自由で、
もっと伸びやかで、
もっと複雑です。
ひとつの言葉で括れるような存在じゃない。
「発達障害」という言葉の前に、
“その子自身”がいるということを、いつも忘れたくない、と思いました。
社会の仕組みの中で生きていくには、
ある程度の“分類”が必要なのかもしれません。
でもそれは、
その子を縛るためじゃなく、
理解に近づくためのものであってほしいと思うのです。
私は子育てが終わって
自己啓発も修得して
物事を俯瞰して見れるようになり
こう思えるようになってきました。
発達障害のある子を
育てているんじゃなくて、
“この子”という
ひとりの人を育てているんだって。
今日も読んでくださりありがとうございます。
どこかで「なんかホッとした」と思ってもらえたら、それが一番嬉しいです🌿
