見出しそのままのライドでございましたね。まだ完全復帰ではないので、引き続き出しやすいE号で、さらっと回ってきただけです。本来なら、偽クロモリのD号で行くとこだけどね。
まあ寒すぎて、ぶっちゃけモチベも低かったんだが、一応行ってきました。もう俺も真冬は完全休養しようかと、今年味を占めてしまいました(^ω^)
時間は全部で3:45で、前回と全く同じ。神野良(`・ω・´)(無意味) 距離は全部で30kmぐらいかw
* ルート
最初に、野良オジの訪問を待ちわびている、愛しきハクチョウたちにあいさつに参りましたね。いつも通りいましたが、少し数が少なかったかな。餌付けしない方針なんでね。でもどこも多少はしてるし、白鳥もそれを期待してるみたいなんでw、保存会の方はちょろっと上げてほしい。そうしないと来なくなってしまうのではないかと心配しますw
(昔はがっつり餌付けしてたらしいので。また全国各地を見ても、普通にやってるとこが多いから、埼玉だけがやせ我慢して正論を通したところで意味はありません。売国環境破壊してなんぼの世の中ですマスゴミやユダ西専門家の言うことをうのみにしてはいけません詐欺です(^ω^))
今回は、雨が少ないせいで、荒川の水位が過去一下がっていて驚いた。川底が半分近くまであらわになってたかな。洗濯板のような岩場が出ていて、苔がついているのが見えました。そういう水草類を食べているのだと思いますが。しかし人がやるパンくずのほうが圧倒的に高カロリーで受けるはず(^ω^)(脳筋サイクリスト的発想)
今日は全体的に風が吹いてて寒かったね。晴れてていい天気だったんだが、まだ真冬でした。
そこから、鹿島古墳群のほうまで足を延ばして距離を稼ぎました。E号だから、D号よりも負荷が低くなってしまうので、無駄に走りました。
まあ鹿島古墳群のとこは、管理が行き届いてないことがほぼわかってた。二、三年前にも来たことがあって、そう感じたんだが、まあここ最近の状況を見てても、まず改善してるとは思えなかった。
ロウバイは咲いてて、かなり近くで見られるので、においも楽しむことはできます。しかし、そういうわけで、木なんかも大分傷んでいて、もはや廃業寸前の状況ですかね。ここは、一般の方の植樹で成立してるようなんだが、放置状態のようで、もうすぐ終了しますね。わざわざ見に行くほどのとこでもないです。ここは残念なとこで、古墳群も漠としてるし、河原もいいとこなんだが何の工夫もなくて、殺伐としてます。いかにも埼玉らしいとこですね(^ω^)(無気力、過疎、開発下手)
まあ今回も思ったが、本来はいい地域のはず。本田というとこですね。中世には最高の場所だったはずです。私はクロスバイクで最初期に来たことがあるので、懐かしさを感じる場所です。この川本の畑や道は、埼玉にしては驚くほど洗練されていて整っています。道は走りやすくて気持ちのいいところです。それはそのように、中世の政治がよかったからだと今ではわかります。
だが、現在では放置されています。しかし、埼玉の父なる川である荒川の両岸が、こんなにさびれてしまっているのは悲しみの極みです。最初期から来てるのですが、熊谷駅から上流の地域が放置状態でひどいことになっています。楽しめるところではありません。とても人に見せられないような荒廃した地域です。どうして埼玉県の行政は、荒川をこのような姿に放置できるのか理解に苦しみます。
(それについても、考えが走馬灯のように頭の中を巡っていますが、浦和批判にしかならないのでやめておきますやった)
それで道のりを稼いで、同じ道をバックして、例の畠山重忠公史跡公園に向かいます。ただし今回は、途中で白田山満福寺に寄りました。存在は知っていたんだが、参拝したことはなかった。しかし今回は余裕があったせいか寄りました。えーとそこに至る道の舗装が改善してましたw 植松橋のすぐ下のところの信号に入り口がありまして、それが重忠橋のほうまで続いていて、満福寺から記念史跡公園に行けるようになっている道ですが、確かに舗装があまりよくなかったw しばらく工事してましたが、きれいになっていました。そんなのもあって寄ったw
立派なところでしたし、認識が間違ってた。知っていたんだが、重忠公の本当の墓地にはいくつか説があると思う。確かなことがよくわからない。ここにもありました。菩提寺だということなんだが、墓所は史跡公園のほうにある、と言われている。移動したとかいう話もあって錯綜しているので、各自で確認してくださいw 多分公園に移されているんではないかと思うが、元々は満福寺にあったのかもしれません。それで満福寺にも五輪塔がありました。写真参照してください。
あと横に立派なお堂があり、そこが菩提所(観音閣)と言われているんだが、なんとそこに等身大の千手観音像が祀られているとのことです。その大きさはなんと、六尺三寸だそうです!
やはり重忠公は、決して小さくはなかった、むしろ巨漢ともいうべき偉丈夫だったようですね。そうではないのかと私は思ってた。私が見たいろんな資料などでは、体が小さいというものは一つもなかった。何故かそんな風説が流布されているが、悪意の印象操作である可能性が高いと思います。
重忠は頼朝にたびたび先陣を任された経験があり、確か都に入るときもそうだったので、おそらく見栄えもとてもする立派な武士であったのだろうと私は想像しているわけです。西国人が最初に目にする東国武将が先陣にいるわけですので、そこに最高レベルに見栄えのする人間を置くのが当然の措置と思われるからです。
そう考えると、文武と将としての器、さらに容姿にも秀でた、本当に非の打ちどころのない立派な武士であったということになります。どうしてこんな北武蔵からそんな人材が出たのかというのは不思議ですらありますが、事実でありますw 私が思うには、これほどの人材がたまたま出たということは考えられないと思います。おそらく血筋は悪くなく、秩父など北武蔵(桓武平氏)一族の期待を背負った、選び抜かれた英才だったのだろうと見ています。それだけにマークもきつかったわけでしょうが。
今回たまたま堂に寄ってみたところ、そのような情報が書かれていたので、確信が深まりました。六尺三寸が事実なら、190cmの巨漢ということになります。多少盛ってあるにしても、当時としてはかなり長身だったのではないかといえるかと思います。そうでこそ、大力の伝説もあったのかもしれないわけです。
(重忠は北条氏にとってはコンプレックスなので、記述はいろんな意味でうのみにできないので、要注意ではある。とか言ってるが、原文は全く見たことがないww)
それであとは公園によってお墓参りして帰還です。大体年初のルーティーンですねw 多分サイクリング始めてから毎年来てる。当初は重忠のことなんか何も知りませんでしたからサイクリングのおかげで俺の武蔵魂も目覚めた(^ω^)
上々でした。楽しめましたね。風が冷たくてなかなかつらかったが、真冬だから仕方ないw そろそろ本気出せるといいんですけどね。
* まとめて横伸び写真集垂れ流し





























