ヒクソン・グレイシー パーキンソン病との闘い | 陸 見 の 街 散 歩

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2024/01/14 Rolling Stone Japan の記事

「ヒクソン・グレイシーが語る、パーキンソン病との闘い、悟りの境地」より

抜粋させて頂きました。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/40437


 グレイシー一族の名はブラジリアン柔術(BJJ)と同義で語られ、
現在65歳のヒクソン・グレイシーは格闘技界で伝説的な存在だった。
1980年の初試合以来、彼は世界を股にかけて戦い続け、
その非公式な戦績は400戦以上無敗とされている。

今、ヒクソンは勝ち目のない強敵と向き合っている。
彼が手の微妙な震えに気付いたのは、3年近く前のことだった。
翌年、彼の主治医はパーキンソン病の診断を下す。
パーキンソン病はヒクソンにとって最後の対戦相手となったのである。

ヒクソンは語る。
「パーキンソンをトランクに閉じ込めてやるんだ。
死ぬのは怖くない。誰だって死ぬんだからね。
でも諦めることは受け入れられない選択肢だ」


1959年、リオデジャネイロに生まれたヒクソンは、18歳の頃には黒帯を締めていた。
「私はアートを代表しているんだ。私は生きざまを、一族を代表している。
その責任はとてつもなく大きい、私自身の生命より重いものだ。
死んでもいいと考えていたよ」

ブラジリアン柔術の頂点に位置するグレイシー一族の中でも、
ヒクソンは最強と考えられている。彼が抜きん出ていた理由を問うと、
彼は運動神経とよどみないテクニックを挙げた。

だが彼はそれに加えて、勝利への執念が一線を画していたと主張する。
「基本的に私は人生ずっと無敗だよ」。彼の発言には皮肉のかけらもない。
「さまざまなスタイルの相手と戦って、勝利を収めることが出来た」


彼にとっての大きなターニングポイントは、ブラジルを出たことだった。
1989年、彼はアメリカで夢を実現させ、自分の望む人生を実現させようとしたのだ。
「この国で暮らして、子供を育てるのは、初日からエキサイティングな経験だったよ」

“ピコ・アカデミー”は、夏は暑く冬は寒かった。
「酷かった。建物からして見すぼらしかったよ。
でも、あの建物から新しいチャンピオン達が生まれたんだ」


ヒクソンはブラジリアン柔術が最強格闘技であることを証明するためにどこでも、
誰とでも戦う意志を持っており、再度にわたりそれを実証した。
ヒクソンへの挑戦で最もよく知られているのが1994年12月、安生洋二との一件だろう。

戦いが始まると安生はヒクソンの口に親指を突っ込み、頬に向けてフックして
引っ張ろうとする。それに対してヒクソンは、安生にメッセージを伝えることを決意し、
指を口から出すと、逃げられないように押さえ込んだ。

パンチが雨のように降り注ぎ、安生の鼻は平らになる。
一連の打撃の後、ヒクソンは安生をチョークで失神させた。
それから数日後、安生は再びアカデミーを訪れたが、
このときは侍の兜を手土産に、非礼を謝罪している。


パーキンソン病と戦うにあたって、ヒクソンは体質管理の試練を乗り越えようとしている。
病気の診断があってから、医師は通常通り投薬による治療を行うことにした。
それによって症状は軽減されたが、その体質に大きな向上は見られなかった。
投薬による副作用で、ヒクソンは体調不良を見せるようになっている。

「リスク回避を重視するアメリカの医療体制に盲目的に従うというのは、
剣と盾を明け渡して、自分の墓穴を掘るシャベルを手にするようなものだ」。
ヒクソンは自伝の執筆用に行われたインタビューのひとつで話している。

ヒクソンは治療の効果を高めるべく、食事とエクササイズの方法を変えることにした。
「集中して運動するように心がけているんだ。自転車、レジスタンスグローブと
フットウェアを着用しての水泳とかね。より効果を増すために、ワークアウトするとき
シュノーケルを付けたりもしているんだ。そんなトレーニングを毎日行っているよ」


医師からパーキンソン病の宣告を受けることは、人生の最終章が始まったことを意味する。
事故にでも遭わない限り、彼は自分の人生がどのように終わるのか知っているのだ。
闘いに明け暮れ、命を賭けてきた男が、いずれ生命を奪いに来ると予測される手の震えに

直面したとき、どう対処するのだろうか?

「もし私が17歳でパーキンソン病の宣告を受けたら、大きな打撃を受けていたかも知れない。
まだ人生経験が浅かったし、自分というものが判っていなかったからね。
でも今日まで人生でさまざまなことをしてきた。自分が何者なのか分かっているんだ。
パーキンソン病を自分に順応させるつもりだよ。ハッピーな知らせではないけれど、
可能な限り快適な状態に出来ることだよ」


過去10年、ケガやパーキンソン病を経て、ヒクソンは柔術に関して新しい考え方を
するようになった。人間の自信を刺激してポテンシャルを引き出す、
よりスピリチュアルな考え方である。戦わずして勝利するという考え方を、
彼は“目に見えない柔術”と呼んでいる。

柔術に対するスピリチュアルな視点が生まれた理由のひとつは、
彼の長男ハクソンの死によるものだった。
この悲劇を経て、ヒクソンは人生を再考するようになった。
彼は予定されていた試合をキャンセル。それ以来プロとしてはリングに上がっていない。

彼は鬱との闘いを余儀なくされ、離婚も経験している。
2番目の奥方となるキャシアと出会って、彼はロサンゼルスに戻った。
その人生は勝利の連続だったが、息子の死は乗り越えることが不可能に近かった。

「練習に復帰したとき、私はもうトップになるためのトレーニングを出来る年齢とは
言えなくなっていた。しかし私はそれを乗り越えて、自分の人生と家族を正面から
見据えることにした。そして人生を良い方向、ポジティヴな方向に持っていくことが
出来たんだ」


悲しみと折り合いを付けるため、彼はブラジリアン柔術にテクニックだけでなく
ハートの要素を取り入れた新しいヴィジョンをもたらす必要があった。
彼は“目に見えない柔術”を残していくことを望んでいる。

「実際に人を癒やすことが可能なんだ。柔術によって前向きな影響を受けられる。
砂漠で水を手に入れるような気分だよ。それは自分のエゴのためではない。
自分の持つ価値を喉が渇いた人々に提供することの重要性を考えているんだ」

“目に見えない柔術”は戦闘に焦点を当てるのでなく、それを超えた武道であると彼は主張。
内面の成長と自己評価、そして自己の最上の姿を見出す自信を築くことに重点を置いている。

ある意味その発言は、ヒクソンがかつてのようなアスリートたり得ないゆえのものだろう。
ここ15年、彼は腰と背中の怪我に悩まされてきた。サーフィンのポップアップは遅くなり、
闘いの喜びは消えていく。その結果、彼は柔術がマットの上だけでなく、
人生においてどんな意味を持つのか、深く考える必要を感じるようになった。
彼は精神性により焦点を当てるようになったのだ。自信、戦略、忍耐、彼はそれらを、
格闘技の“目に見えないツール”と呼んでいる。


「戦わずして勝利する、というコンセプトに、より心地よさを感じるようになったんだ。
今でも柔術によって自己表現したいと強く思っている。ただ、違ったやり方でね。
かつてのように競技としてではなく、自己認識に重点を置くんだ」

インタビュー中も彼は言いたいことを口に出来ないが、手振りで説明することが出来る。
彼は相手に触れることで相手を測定しているようだ。
握手をするときじっと眼を覗き込んでくる彼は、右手で相手の右手を握りながら、
左手で上腕三頭筋から広背筋までを探る。まるで相手の心を読んでいるように。

ヒクソンは動作とアクションによって自らの考えを明確に表現する。

さまざまな意味で、言語は彼にとって妨げといえる。
彼の手に触れるまで、私はその天賦の才能を判っていなかった。
だがその後になると、彼が達人であることは明らかだ。
ヒクソンはブラジリアン柔術を実体験してみるまで、文章にすることは不可能だと語った。
彼の言う通りである。