11月11日


 老人が弓を扱う様を見て求婚者達のある者は言う。


ἦ τις θηητὴρ καὶ ἐπίκλοπος ἔπλετο τόξων:
ἤ ῥά νύ που τοιαῦτα καὶ αὐτῷ οἴκοθι κεῖται (21-397,8)

誰か弓の目利きか手練れの者であろう

あるいはひょっとして、同じような物が家に置いてあるのだろうか


既に、老人がただならぬ者であることを感じ取っている求婚者もいたのだ。「同じような物が家に置いてあるのだろうか」は際どい線を行っている。老人(オデュッセウス)はニヤリとσαρδάνιονな(凄みのある)笑み(20-302)を漏らしたかも知れぬ。

しかし一方次のように言う求婚者もいる。


αἲ γὰρ δὴ τοσσοῦτον ὀνήσιος ἀντιάσειεν
ὡς οὗτός ποτε τοῦτο δυνήσεται ἐντανύσασθαι. (21-402,3)

善い目に遭う見込みが(此奴に)あればよいが

此奴がいつか弓を張ることができる見込みくらいにな


発言者はどうせ張れる見込みは全く無いと思っているのだから、善い目に遭うことを全く望んでいないことになる。持って回ったいい方が皮肉を高めている。


斧の歴史は古い。石斧は万年単位の歴史がある。その後、洋の東西を問わず、生活、戦闘の道具として、また祭器として、権力の象徴として人との深い関わりがあったようだ。「王」の漢字は斧の象形であるとも言われている。「ファッショ」の語源は斧の周りを短杖で束ねた束桿だ。三内丸山遺跡からも出土している。

ところで私は斧を使ったことはあったろうか。昔薪を割ったとき使っていた道具は「まさかり」と読んでいた気がする。まあまさかりも、大きな斧とか刃が広い斧とかいわれているからも、斧の一種ではあろう。しかし今はそれも身近では全く見ない。数万年以上の人類にとっての斧の歴史はどうなっていくのだろうか。