「求婚者達に屋敷まで食い荒らされている」と訴えたテーレマコスに対し、客人に扮したアテーネーは応えます。
τὸν δ᾽ ἐπαλαστήσασα προσηύδα Παλλὰς Ἀθήνη:
ὢ πόποι, ἦ δὴ πολλὸν ἀποιχομένου Ὀδυσῆος
δεύῃ, ὅ κε μνηστῆρσιν ἀναιδέσι χεῖρας ἐφείη.
εἰ γὰρ νῦν ἐλθὼν δόμου ἐν πρώτῃσι θύρῃσι
σταίη, ἔχων πήληκα καὶ ἀσπίδα καὶ δύο δοῦρε,
τοῖος ἐὼν οἷόν μιν ἐγὼ τὰ πρῶτ᾽ ἐνόησα (1-252~7)
パッラス・アテーネーは憤慨して彼に言った
おお何と言うことでしょう、さぞかし不在のオデュッセウス様に
いてほしいとお思いでしょう、彼なら恥知らずな求婚者共を成敗するでしょうに。
今もし館の玄関先にやって来られて
立ったならなあ、兜と楯と二本の槍を持って(立ったならなあ)
私が彼を最初に見た時の姿そのままで
252行目にある ἐπαλαστήσασα は、to be full of wrath at a thing(LSJ)を意味するとされていますが、語源については不確かであり hapax でもあります。ἐπαλαστήσασα は同行の Παλλὰς Ἀθήνη と音が酷似しています。この珍しい語がここで使われているのは、それが故なのかもしれません。
255行目の εἰ には二つの解釈があります。一つは願望の εἰ、もう一つは仮定節を導くεἰです。
上記引用の範囲では前者願望の εἰ ととるのが自然です。しかし、少し先には次の詩行が出てきます。
πάντες κ᾽ ὠκύμοροί τε γενοίατο πικρόγαμοί τε. (1-266)
奴ら皆早死にすることになり苦い求婚になることでしょう
この266行目を帰結節ととれば255行目の εἰ は仮定節を導く εἰ ととれます。その方が文法的には明瞭です。その場合、間に挟まれた257~265行目までは括弧書きの詩節となります。実際、内容も客人メンテースの思い出に関わる別次元の脱線的叙述です。
ただ、εἰ γὰρ(256)から πάντες κ(ε)(266)まではかなり離れていますので、εἰ γὰρ を聴き・読んだ聴衆・読者は、その時点ではやはり「願望の εἰ」ととったのではないかとも思われます。他方、既に今後の展開を知っている聴衆・読者にとってみればεἰ γὰρ を聴き・読んだ時点で πάντες κ(ε) 以下の帰結は予想されたはずだとも言えます。
しかしピエロンは「二つの説明は相反するものではない」と述べています。たしかに、これら二つの解は結局のところ一つに帰するのかもしれません。願望(~であればなあ)は、もともと条件的要素(あれば)を含んでいると言えますので。