宴会に「付きもの ἀναθήματα」(152)である歌曲が始まろうとしています。
κῆρυξ δ᾽ ἐν χερσὶν κίθαριν περικαλλέα θῆκεν
Φημίῳ, ὅς ῥ᾽ ἤειδε παρὰ μνηστῆρσιν ἀνάγκῃ.
ἦ τοι ὁ φορμίζων ἀνεβάλλετο καλὸν ἀείδειν. (1-153~5)
伝令が美しい竪琴を手に置いた
ぺーミオス(の手)に、彼は求婚者達にやむを得ず歌った。
彼は琴を掻き鳴らして美しく歌い始めた。
伶人 Φήμιος 登場です。他の使用人達と違って固有名詞で呼ばれているのが注目されます。ἀνάγκῃ(154)と、求婚者達のために歌うことが不本意であることが明言されています。伶人としては、本来ならしかるべき王の主催するしかるべき宴席で歌いたかったと思われます。詩人ホメーロス自身の像が見え隠れしています。
ἀνεβάλλετο は「(歌い)始める」の意ですが、具体的には「前奏として κίθαριν を掻き鳴らす」ことを指していると思われます。
演奏・朗誦の間テーレマコスは(アテーネー扮するところの)客人に問いかけます。その中で父親オデュッセウスのことに触れます。
・・・ οὗ δή που λεύκ᾽ ὀστέα πύθεται ὄμβρῳ
κείμεν᾽ ἐπ᾽ ἠπείρου, ἢ εἰν ἁλὶ κῦμα κυλίνδει. (1-161,2)
・・・ その人の白骨は雨に朽ちています
大地に横たわって、あるいは海中で波が転がしています。
すなわち、すでに白骨化しているだろうと。さらに、
νῦν δ᾽ ὁ μὲν ὣς ἀπόλωλε κακὸν μόρον, ・・・ (1-166)
彼はいまやそのように悪しき運命に死を遂げています
と、父の死が既定の事実であるかのように言っています。テーレマコスは父の生死について確証を得ていないはずなのにです。実際少し前に、地の文でテーレマコスは
ἧστο γὰρ ἐν μνηστῆρσι φίλον τετιημένος ἦτορ,
ὀσσόμενος πατέρ᾽ ἐσθλὸν ἐνὶ φρεσίν, εἴ ποθεν ἐλθὼν
μνηστήρων τῶν μὲν σκέδασιν κατὰ δώματα θείη, (1-114~6)
というのも心に悲しんで求婚者達の中で座っていたからだ
優れた父親を胸に思い浮かべながら、どこからかやって来て
彼ら求婚者達を館で蹴散らしてくれぬものかと
と語られていました。しかしここで本人の口からは父の死を断定的に述べています。これは何故でしょうか。
二十年間不在であったのでほとんど絶望していたのか、敢えて悲観的に語って客人の同情を誘おうとしたのか、さらに、それが呼び水となって客人から反論・反証が聞けることを期待したのか。あるいは、テーレマコスの心には希望と絶望の間での揺れがあり、今はその内絶望の方がそのまま出ているということなのかもしれません。
168行目には νόστιμον ἦμαρ の詩句があります。これは『オデュッセイアー』におけるキーワードです。νόστιμος、νόστος、νοστέω はこの詩篇に頻出し、その合計は百箇所を超えます(ちなみに『イーリアス』では二十数カ所です)。「ノスタルジー」がこの語から作られたことも、西欧の伝統における『オデュッセイアー』の存在感を示しています。
テーレマコスの言葉の中には次の一節があります。
εἰ κεῖνόν γ᾽ Ἰθάκηνδε ἰδοίατο νοστήσαντα,
πάντες κ᾽ ἀρησαίατ᾽ ἐλαφρότεροι πόδας εἶναι
ἢ ἀφνειότεροι χρυσοῖό τε ἐσθῆτός τε. (1-163~5)
もし彼がイタケーに帰還したのを見たなら
皆祈願することでしょう、脚がより速くあることを
黄金と衣装でより豊かであることよりも。
ここでもユーモアが、というより皮肉が健在です。