ゼウスはアテーネーの訴えに同意します。そしてオデュッセウスの帰還を妨げているのは Ποσειδάων であるとして、こう言います。
ἀλλ᾽ ἄγεθ᾽, ἡμεῖς οἵδε περιφραζώμεθα πάντες
νόστον, ὅπως ἔλθῃσι: Ποσειδάων δὲ μεθήσει
ὃν χόλον: οὐ μὲν γὰρ τι δυνήσεται ἀντία πάντων
ἀθανάτων ἀέκητι θεῶν ἐριδαινέμεν οἶος. (1-76~9)
さあ、我々ここにいる者達は皆考えようではないか
帰還を、彼が帰るように。ポセイダーオーンは放棄するだろう
彼の怒りを。というのも彼はできないだろうから、全ての神に対して
不死の神々の意思に反して独りで抗うことは。
76行目の ἡμεῖς οἵδε について Stanford は with local force = we who (unlike Poseidon , see 22 above) are here と註をつけています。ここでいう 22 above は
ἀλλ᾽ ὁ μὲν Αἰθίοπας μετεκίαθε τηλόθ᾽ ἐόντας (1-22)
しかし彼の神(ポセイダーオーン)は遠くにいるアイティオペース人達のところに赴いていた
でした。
ἡμεῖς οἵδε によってゼウスはオデュッセウスの帰還を支持する立場を明確にしています。ただ、ここでゼウスが示しているのはアテーネーをはじめとする他の多数の神々と同調する姿勢であり、絶対的権威を揮う姿勢ではありません。『イーリアス』における時として Διὸς βουλή(『イーリアス』1-5)を押しつけたゼウスとは異なるゼウス像が垣間見えます。
78,9行目の ἀντία πάντων/ἀθανάτων ἀέκητι θεῶν ἐριδαινέμεν οἶος についてピエロンは、「ἀντία πάντων は ἐριδαινέμεν οἶος につなげるべきである。ἀθανάτων ἀέκητι θεῶν の詩句は ἀντία πάντων を強めるのに貢献している」と解説しています。
たしかに、そうとった方が ἀντία πάντων と ἐριδαινέμεν οἶος の対照が際立ちます。そして、ἀντία と ἀέκητι との重複気味の措辞はピエロンがいう強めの効果を発揮しているようです。
ゼウスの賛同を得てアテーネーはふたつのことを言います。
一つ目として、ヘルメイアースをカリュプソーの許に派遣してオデュッセウスを帰還させるべしと伝えさせましょうと言います。
そして二つ目を次の通り言います。
αὐτὰρ ἐγὼν Ἰθάκηνδ᾽ ἐσελεύσομαι, ὄφρα οἱ υἱὸν
μᾶλλον ἐποτρύνω καί οἱ μένος ἐν φρεσὶ θείω,
εἰς ἀγορὴν καλέσαντα κάρη κομόωντας Ἀχαιοὺς
πᾶσι μνηστήρεσσιν ἀπειπέμεν, οἵ τέ οἱ αἰεὶ
μῆλ᾽ ἁδινὰ σφάζουσι καὶ εἰλίποδας ἕλικας βοῦς. (1-88~92)
一方私はイタケーに赴きましょう、彼の息子を
更に励ますために、そして彼の心に力を与えましょう
頭髪を長く伸ばしたアカイア人達を広場に呼んで
求婚者達皆に(止めよ)と言い渡すように。彼らはずっと
多くの羊と足をくねらせる角曲がった牛を屠っています。
そしてこう続けます。
πέμψω δ᾽ ἐς Σπάρτην τε καὶ ἐς Πύλον ἠμαθόεντα
νόστον πευσόμενον πατρὸς φίλου, ἤν που ἀκούσῃ,
ἠδ᾽ ἵνα μιν κλέος ἐσθλὸν ἐν ἀνθρώποισιν ἔχῃσιν. (1-93~5)
そしてスパルタと砂塵巻くピュロスへと送り出しましょう
愛する父親の帰還について知るべく、もしや消息を聞きうるかと
また人々の間で良き評判を彼が得られるようにと。
88行目に οἱ があり、89行目にも οἱ があります。前者はオデュッセウスを、後者はテーレマコスを指します。
90行目の καλέσαντα の主体はテーレマコスですので前行(89行目)の οἱ に一致させて与格になりそうなところですが、ここでは次行の不定法 ἀπειπέμεν の主語として対格をとっています。
93行目でアテーネーはテーレマコスをスパルタとピュロスに旅立たせると言っています。そしてその目的を続く二行でふたつ述べています。すなわち、父帰還の情報収集とテーレマコス自らの名声獲得です。
しかしこれらはそれほど説得力のある目的なのかとの疑問が生じます。求婚者達の狼藉を放置しての旅立ちですので尚更です。古来その疑問は指摘されていたようです。
それでも、一つ目の父帰還の情報収集はそれなりに理解できます。死が明らかになれば諦めもつきますし、他方生存の地が分かれば帰還を助け早める可能性なきにしもあらずですので。
しかしもう一つの自らの名声獲得はどうでしょうか。親孝行の誉れを得るとの意味だと思われますが、父親の生死という重大事と並べて挙げることか、という感は否めません。名声獲得は自分事であり、純粋さを欠いた動機にも聞こえますので。たとえκλέος がホメーロス世界においていかに重要な理念だとしてもです。
古註釈者にも同様の問題意識があったようです。ピエロンは「幾人かの註釈者はその(名声の)意味は疑わしいとして、95行は前行に含まれている考えの単なる反復であると理解できるとしている」と述べています。成程95行の κλέος を父帰還の「情報」のことだとするわけです。しかし μιν κλέος ἔχῃσιν をその意味でとるのはやはり無理がありそうです。
また、95行目の ἵνα 以下の節は目的(すなわち動機)というより導かれる必然の結果を言っているとの説明もあるいは可能かもしれません。
Heubeck はこの動機について、this sounds a little thin(薄弱)とした上で、面白い感想を漏らしています。すなわち、「詩人は明らかに動機よりも冒険そのものにより興味を引かれている」と。この問題は、テーレマコス冒険譚とオデュッセウス帰還譚からなる『オデュッセイアー』構成の問題、すなわちこの詩篇成立の問題ともつながっていそうです。