12月24日
オデュッセウスはその様な父親の姿を見て涙を流す。そこで、「抱きついてすべてを話すか、それとも色々聞いて試すか」思い迷う。しかしそこで、
ὧδε δέ οἱ φρονέοντι δοάσσατο κέρδιον εἶναι,
πρῶτον κερτομίοις ἐπέεσσιν πειρηθῆναι. (24-239,40)
そのように考えている彼によいことであると思えた
まず意地悪い言葉で試すことが
と、またまた「試すπειρηθῆναι」だ。しかも、ここでは更に「意地悪い言葉でκερτομίοις ἐπέεσσιν」となっている。κερτομίοιςには「意地悪い」以外に「からかいの」とか「罵りの」とかのニュアンスがあるが、そのいずれをとるにせよ理解しがたい。貧と悲しみに耐えている実直なラーエルテースの姿は共感を呼ぶが、他方このオデュッセウスの態度には怒りをさえ覚えそうだ。何故オデュッセウスはそれが「よいことであるκέρδιον εἶναι」と思ったのか。倫理的観点から言って許しがたいのみならず、オデュッセウスの心理としても理解しがたい。これは謎だ。
そこで思ったのだが、これをオデュッセウスの心理、行動として理解しようとするのが間違いなのではないか、詩人の心理、行動として考えることはできまいか。すなわち、オデュッセウスはここで詩人の役割を代行し、物語の進行に関与し差配している。解決を遅延させ、緊張を高め、クライマックスを一層劇的なものとする。そのための「意地悪い言葉でκερτομίοις ἐπέεσσιν(24-40)」であり、更には先のペーネロペイアに対する「気持ちを掻き立てようἐρεθίζω(19-45)」だったのではないか。詩人にとってそれが「よいことであるκέρδιον εἶναι」と思えたのだ、と。
クリスマスイブ
へろへろとワンタンすするクリスマス 不死男
味噌汁の後クリスマスケーキかな 拙作