12月22日
冥界の場面から一転、イタケーの郊外、ラーエルテースの農園に舞台は移る。
農園に着くと、オデュッセウスは他の者達(テーレマコス、豚飼、牛飼)に家に入るように指示した上で、こう言って別れる。
αὐτὰρ ἐγὼ πατρὸς πειρήσομαι ἡμετέροιο, (24-216)
一方私は我々の父を試そうと思う
αἴ κέ μ᾽ ἐπιγνώῃ καὶ φράσσεται ὀφθαλμοῖσιν,
ἦέ κεν ἀγνοιῇσι, πολὺν χρόνον ἀμφὶς ἐόντα. (24-217,8)
果たして私だと気づくかどうか、目で見分けるかどうか
それとも気づかないか、長い間離れていたので
またしても「試そうπειρήσομαι」だ。何故そんな必要があるのか。ペーネロペイアに対してもオデュッセウスは(恐らくは試そうとして)「気持ちを掻き立てようἐρεθίζω」としたことがあった(19-45,10月1日の項)。それも不審ではあったが、その時はまだ求婚者達がいたわけだし、「ひょっとして心変わりしてはいまいか」の余地がなくもなかった。しかしここは父親で心変わりなどもあり得ない。
この疑問は多くの人が感じるところらしく、Fernandez-Gallianoの註にも「This test has been frequently criticized as cruel and unnecessary」とある。
この「試し」は今日の一節で終わらない。引き続き何故か考えて行くことにしよう。
ここ横浜でも公園の木の葉はほとんど地に降り敷き、冬の風景だ。
鴛鴦の何故あって向き変ふる 拙作