12月4日


さていよいよ夫婦対面だ。しかし、


ἡ δ᾽ ἐπεὶ εἰσῆλθεν καὶ ὑπέρβη λάϊνον οὐδόν,
ἕζετ᾽ ἔπειτ᾽ Ὀδυσῆος ἐναντίη, ἐν πυρὸς αὐγῇ, (23-88,9)

彼女は広間に入り、石の敷居を渡ると

オデュッセウスの向かいに腰掛けた、火の明かりに照らされて


τοίχου το
ῦ ἑτέρου: ὁ δ᾽ ἄρα πρὸς κίονα μακρὴν
ἧστο κάτω ὁρόων, ποτιδέγμενος εἴ τί μιν εἴποι (23-90,1)

一方の壁を背に。彼の方は大きな柱の前に

下を見ながら座っていた、彼に何か言うのを待ち受けながら


ἰφθίμη παράκοιτις, ἐπεὶ ἴδεν ὀφθαλμοῖσιν.
ἡ δ᾽ ἄνεω δὴν ἧστο, τάφος δέ οἱ ἦτορ ἵκανεν: (23-92,3)

けなげな奥方が、(彼)を目で見て。

しかし彼女は長く黙ったまま座っていた、心が呆然としてのだ


ペーネロペイア、オデュッセウス、ペーネロペイアと、対面の場の焦点が移動し、それぞれの挙措が静かに語られる。そしてその場を支配しているのは沈黙。ここも名場面だ。

しかし腑に落ちないところもある。離ればなれになった夫婦が双方辛酸を嘗め、二十年ぶりに念願の再会を果たしたした時、このような場になるのだろうか。ペーネロペイアの方は半信半疑なのだから分かるとしても、オデュッセウスの方は何故もっと積極的に語りかけないのか、もう求婚者への顧慮は不要なのだから。何故「下を見ながらκάτω ὁρόων」座っているのか。まさか照れているわけではあるまいに。

91行目に「彼に何か言うのを待ち受けながらποτιδέγμενος εἴ τί μιν εἴποι」とある。あるいはオデュッセウスはペーネロペイアの気持ちをまだ「試して」いるのだろうか。心底再会を喜んでくれるのかどうか、と。しかし、それにしてもいささか腑に落ちない。


今日の一節もそうだが、この詩編では腑に落ちない場面や詩句に出くわすことが時々ある。オデュッセウス自身の場合のみならず、ペーネロペイアやアテーネーの言動でも何回かあって、その都度指摘してきた。

腑に落ちない原因は何なのか、それについても一度取り上げたことがあったように思うが、ここで改めて考えて見る。

まず勿論、私自身の読みの浅さ、理解力のなさが原因ということもあるだろう。それも様々な側面である。作品理解という面でも、文化的時代的背景、制度風習の知識という面でも、又語学的な面でも。

又、詩人自身に責任があることもあろう。すなわち作者としての、あるいは編集者としての不手際だ(編集者というのは、ホメーロスは自ら創作するのみならず口承の伝統を踏まえ、その遺産を自在に活用して詩編を編んだのだろうから)。いかに至高の詩人とはいえ不手際が全くないとはいえない。「神聖のホメーロスも時として居眠りす」

又、テキストの不備もあり得る。書写の繰り返しの中で、写し間違いが生じたとしても驚くに当たらない。

更に、そのいずれでもないという場合もあるのではないかという気がする。そもそも「腑に落ちる様に出来ていない」ということはないだろうか、すなわち「謎」だ。我々は作品を合理的に解釈しようとする。意味を求め辻褄を求める。しかし世の中には意味や辻褄のない剥き出しの事実・言動、敢えていえば「謎」としかいいようのない事実・言動もある。今日のオデュッセウスの「下を見ながらκάτω ὁρόων」などもその一つかも知れない。そして、この詩編の尽きせぬ魅力のひとつはその蔵する「謎」にあるのではないかと思う。