11月25日
求婚者達は次々に殺され床は「一面血の海となったδάπεδον δ᾽ ἅπαν αἵματι θῦε(12-309)」。求婚者達の中で生贄検分役を努めていたレーオーデースは、命乞いをするがオデュッセウスに討たれる。次いで命乞いしたのは伶人ぺーミオスだった。
αὐτοδίδακτος δ᾽ εἰμί, θεὸς δέ μοι ἐν φρεσὶν οἴμας
παντοίας ἐνέφυσεν: ἔοικα δέ τοι παραείδειν (22-347,8)
私は自づと学んだのです、神が私の心に(歌の)筋を
あらゆる(歌の筋を)植え付けなさったのです。それで私はあなたに歌うことが出来ます
ὥς τε θεῷ: τῷ μή με λιλαίεο δειροτομῆσαι. (22-349)
神に歌うのと同様に。ですからどうか私の首を刎ねないでください
求婚者達に歌っていたのは強いられてやむなくだったのです、と。
「自づと学んだαὐτοδίδακτος」とは興味深いが、どういうことを意味しているのだろうか。続く「神が」云々は、詩人がそして伶人が両詩編冒頭はじめ何度もムーサイに呼びかけているからよく分かる。詩作や吟唱の技はムーサイの加護あってのことだったのだろう。
「自づと学んだ」とは、師に習ったのではない、他人の模倣ではない、ということだろうか。そうではあろうが、それを「自分で自力で学んだ」と独創の意味にとると間違いだろう。少なくとも近代的独創ということではあるまい。やはりムーサイの加護のことをいっているのではなかろうか。すなわち、神の加護を享け詩想を得た(と少なくともそう信じていた)ことを「自づと学んだαὐτοδίδακτος」といったのではないだろうか。
そしてそれは伶人が神に嘉されていることであり、命乞いの理由にもなり得るのだろう。
昨日の句会で出された一句。
戯れに長葱腰に差してみる 徳海
男が、廊下か台所か、長葱が横たわっているのを目にして、ふとおどけてみた。飄然と、といいたいところだが、そこには哀愁が漂う。何故だろうか。おそらく男は一人であろう。もう老境にさしかかった男は腰も曲がっているかも知れない。「長葱」がそれを思わせる。ユーモアとペーソスを湛えた句だ。