11月22日

そしてアテーネーはオデュッセウスのもとを離れる。


α
ὐτὴ δ᾽ αἰθαλόεντος ἀνὰ μεγάροιο μέλαθρον
ἕζετ᾽ ἀναΐξασα, χελιδόνι εἰκέλη ἄντην. (22-239,40)

(女神)ご自身は黒く煤けた館の天井に

跳び上がってお座りになった、燕さながらのお姿で

 お手並み拝見とばかり見物を決め込んだわけだ。戦闘の緊張のさ中に挟まれた滑稽だ。女神が「黒く煤けた天井αἰθαλόεντος μέλαθρον」に座るというのも面白い。

 燕は二度目の登場だ。前回は弓弦の音の比喩の中だった(11月13日の項)。

ἡ δ᾽ ὑπὸ καλὸν ἄεισε, χελιδόνι εἰκέλη αὐδήν. (21-410,1)

それは燕の声音にも似て美しい音を立てた

 今回は音ではなくその姿に着目している。成程、燕の姿は女神に相応しい高貴さがなくはない。

 今日の一節について、Russoの註釈を読んでいて次の一文に出会った。曰く、

「この燕の挿話に関しては多くの議論がなされてきた。アテーネーが実際に鳥に姿を変えたのか、あるいはそれは単に詩的比喩の一例なのかの論争である」

注釈家とはこんなことまでも真剣に議論する職業なのだ。確かに、εἰκέληを「さながら」と訳したが、それを「(実際に)化けて」ととるか、「(単に)似せて」ととるかでは若干違いがある。ただ、何か可笑しい。何が可笑しいかというと、そもそもアテーネーという神の存在、その出現、そしてその変身という「化けてか似せてか」という問題の遥か以前の、遥かに大きな問題があるにもかかわらず、その荒唐無稽さは問わず、それら神の存在、出現、変身をいわば当たり前の前提として議論しているからだ。幽霊自体は問わず、その足はどこから消えているかの論争をしているようなものだ。端から見るとこの論争風景、上記一節に劣らず滑稽ではある。高みの見物を決め込んだアテーネーもこの風景を見たら笑うに違いない。