11月21日

さて豚飼達は戻ってきて、オデュッセウス以下四人(オデュッセウス親子、豚飼、牛飼)と求婚者達が対峙する。そこにアテーネーがやって来たのを認めて、オデュッセウスは助力を求める。それに対してアテーネーは「トロイアで見せた勇気はどこに行ったのか」と叱責する。それに次の詩行が続く。

ἦ ῥα, καὶ οὔ πω πάγχυ δίδου ἑτεραλκέα νίκην,
ἀλλ᾽ ἔτ᾽ ἄρα σθένεός τε καὶ ἀλκῆς πειρήτιζεν (2
2-236、7)

(アテーネーは)こう言うと、一方的勝利を与えようとは全くなされず

まだ気力と勇気のほどを試そうとされた

ἠμὲν Ὀδυσσῆος ἠδ᾽ υἱοῦ κυδαλίμοιο. (22-238)

オデュッセウスと誉れ高い息子との(気力と勇気のほどを)

神も人間を試すことがある。アテーネーは徹底したオデュッセウス贔屓なのだが、それでもいつもたやすく「一方的勝利ἑτεραλκέα νίκην」を与えるわけではない。ここら辺には微妙な匙加減がある様だ。その匙加減というのは、詩人の神に対する観念に由来するものなのか、あるいは詩人の物語展開上の要請に基づくものなのか。

昨日、「志ん朝の芸風をビデオで偲ぶことが出来る」と言った。だが本当に出来るのだろうか。寄席での落語とビデオ映像と、本当に同じだろうか。寄席での生の落語にはその場、その時の空気というものがある。そして、同じ演目、同じネタであってもどう語られるかは語られるその時にしか分からない。一回限りの緊張感がある。俳諧では「座」という。「文台引き下ろせば即ち反故」は芭蕉の言葉だ。ビデオで見る落語は本で読む連句に似ている。座を同じくした者ならではの醍醐味そのままというわけには行かぬ。やはり「辛うじて」の偲ぶよすがに留まるのだろう。