11月15日

第二十二歌に入る。

オデュッセウスは弓を構えて、求婚者達に言い放つ。

οὗτος μὲν δὴ ἄεθλος ἀάατος ἐκτετέλεσται: (22-5)

このἀάατοςな競技はもうおしまいだ


ν
ῦν αὖτε σκοπὸν ἄλλον, ὃν οὔ πώ τις βάλεν ἀνήρ,
ε
ἴσομαι, αἴ κε τύχωμι, πόρῃ δέ μοι εὖχος Ἀπόλλων. (22-6,7)

今は別の的だ、誰もかつて射たことのない(的だ)

見てみよう、射当てることが出来るか、アポローンが私に誉れを与えてく下さるか

5行目にあるἀάατοςについては先に求婚者の首領アンティノオスの弓競技を形容する言葉の中にあった。(21-90、11月2日の項)。その時は「困難至極な」との訳語をあてた。

この詩行ではどうか。ここも諸説あるところだ。

まず、「この競技οὗτος ἄεθλος」を上記の様に「これまでの弓(で斧を射貫く)競技」ととるか「これからの競技(誅殺)」ととるかにも関わる。そしてそれによってἐκτετέλεσταιの解釈も前者なら「おしまいだ」、後者なら「なされるぞ」となる。しかし、それについては次行6行目との対照から前者にとる方がよいようだ。

さてそこでここでのἀάατοςの解釈だが、先のアンティノオスの言葉の時と同様「困難至極な」でよいかどうか。「お前達はἀάατος(困難至極)な競技であるとか悠長なことを言っていたが、そんな遊び事はおしまいだ」、これもあり得る。

もう一つ、先のアンティノオスの言葉の時とは違ってἀάατοςをもう一つの語義「危険がない」の意味でとる解釈がある。オデュッセウスはアンティノオスの言葉を踏まえつつもἀάατοςの多義性を利用して、「お前達はἀάατοςという言葉を(困難至極なという意味で)使っていたが、お前達にἀάατος(危険のない)競技はおしまいだ」と言ったとするのだ。

単眼の巨人の場面(第九歌366行目、五月十日の項)での「ウーティス」でもそうだが、言葉の多義性、両義性活用に秀でたオデュッセウスのことだ、二つ目の解釈の方がより面白いのではないかと思う。

スペイン語を少しはじめた。新しい言語は新鮮だ。エルニーニョが「(神の)子」とは初めて知った。セレッソ(桜)やレイソル(太陽王)も、そうだったのか。