11月5日
昨日のペーネロペイアの弓競技に関わる言葉の結論部分を再度引用しよう。
ὃς δέ κε ῥηΐτατ᾽ ἐντανύσῃ βιὸν ἐν παλάμῃσι
καὶ διοϊστεύσῃ πελέκεων δυοκαίδεκα πάντων (12-577,8)
掌で最もたやすく弓を張った者、
そして十二丁の斧を全て射貫いた者(に私は従いましょう)
弓弦を張ることが「困難至極」であることは間違いないが、「最もたやすくῥηΐτατ᾽」と言っているところを見ると、彼女も何人かは張ることが出来るやも知れぬと思っていたようだ。しかし「十二丁の斧(の束の穴)を全て射貫くδιοϊστεύσῃ πελέκεων δυοκαίδεκα πάντων」などということは出来るのだろうか。束は掌でで握るのだから、その穴は直径せいぜい数センチだ。強弓を張る以上に「困難至極」な業だ。しかしペーネロペイアは、かつてオデュッセウスにはそれが出来たと言っている。信じがたい超人技ではあるが、これはひとつの英雄伝説として受け取っておくべきなのだろう。
問題はペーネロペイアが何故こんな弓競技をここで持ち出したのかだ。いくつかの推論が可能だ。
1.もはや再婚延引は不可能と観念し、自ら踏ん切りをつけるべく持ち出した
2.「射貫く」ことが出来ないことを見越して、更なる延引の理由付けのため
3.老人がオデュッセウスであることを覚り、弓を利用した誅殺機会提供のため
4.自分が覚ったわけではないが、誅殺の機会を作ろうとのアテーネーの意向を受けて
おそらく最後の「アテーネーの意向」説が一番無難だろう。と言うのは1の推論は「射貫く」者は出てこないだろうから踏ん切りをつけることにはならず、2と3の推論はいずれも可能性はあるものの想像の域を出ず、詩行の裏付けがないからだ。それに対して「アテーネーの意向」については第二十一歌冒頭に次の趣旨の詩行があった:「アテーネーはペーネロペイアに弓と鉄の斧とを、競技と誅殺の口火として、求婚者達のところに出すようにとの心を起こした」。
しかし、と思う。神を物語進行の主役とし、登場人物の心の動きや言動をすべてそれに操られたものと解釈し、そして登場人物の心の動きや言動に何らかの内的必然性を認めないならば、詩編を空疎なものにしてしまうのではないか、と。
そう考えると、3の推論は捨てがたい。意識の上でか無意識でか老人にオデュッセウスの俤を感じる、そしてオデュッセウスが誅殺の機会を窺っていることを感じ取る。そのことが弓競技の発想に繋がった、と。先ほど詩行の裏付けがないと言った。確かに直接の言及はないのだが、仄めかすともとれる詩行がある。上記引用のペーネロペイアの発言に対する老人(オデュッセウス)の「決して館の中でのその競技をお延ばしなりませんように(19-584)」との反応だ。
ペーネロペイアの弓競技発言の後にこのオデュッセウスの言葉が来ているわけだから、この一節をもって弓競技の発想がオデュッセウスから来たことを証しているとは勿論いえない。しかしそこに以心伝心、阿吽の呼吸に近いものがあったことは大いにあり得る。
弓による超人技は『イーリアス』にもあった。第二十三歌の葬送競技の弓の部だ。そこでは帆柱に細い紐で鳩の足を結わえつけ、それを的としたのだった。一人は紐を断ち切り二等、一人は鳩を射貫いて優勝だった。これも二人ながら超人技だ。