10月22日


オデュッセウスは「心臓κραδίην」には呼びかけて耐え忍ばせたものの、「身αὐτὸς」は輾転反側を繰り返す。


ὡς δ᾽ ὅτε γαστέρ᾽ ἀνὴρ πολέος πυρὸς αἰθομένοιο,
ἐμπλείην κνίσης τε καὶ αἵματος, ἔνθα καὶ ἔνθα (20-25,6)

あたかも人が(贄の獣の)腹を、沢山の燃え上がる火に

脂と血の詰まった(腹を)あちら向きこちら向きに


αἰόλλῃ, μάλα δ᾽ ὦκα λιλαίεται ὀπτηθῆναι,
ὣς ἄρ᾽ ὅ γ᾽ ἔνθα καὶ ἔνθα ἑλίσσετο, μερμηρίζων (20-27,8)

ひっくり返す、そして早く焼き上がるようにと望む、

丁度その如くに彼はあちら向きこちら向きに寝返りをうった、思案しつつ


大胆な比喩だ。オデュッセウスの身が焼かれる獣の腹に喩えられている。おまけに「脂と血の詰まったἐμπλείην κνίσης τε καὶ αἵματος」とまで形容されている。

贄の腹は受け身でひっくり返されるものだ。「いかにして求婚者共を征伐したものか」との思案が(ひっくり返そうとしているわけではないのに)オデュッセウスの身をひっくり返す。「身αὐτὸς」は理性とか意思とか意識とかの意に従って動くとは限らない。


昨日の一節は「身体各部を司ろうとする何か」を示唆していた。そしてそれは近代的自我の萌芽ではないかと言った。 

しかし今日引用の一節を見ると、反対のことを、即ち身体各部を司ろうとする試みの限界を示しているようにも思える。前に「彼を両足が運んだ」(15-555)の表現について触れた(8月18日の項)。そこでも、身体は意識の指令を待つまでもなくみずから動く場合があることが示されていた。身体の世界が意識の世界を超えて広がっている。これらを考え合わせると、ホメーロスは所謂近代的自我の萌芽を示唆するのみならず、同時にその限界をも示唆しているのかも知れない。