10月18日
ペーネロペイアの嘆きは続く。
παῖς δ᾽ ἐμὸς ἧος ἔην ἔτι νήπιος ἠδὲ χαλίφρων,
γήμασθ᾽ οὔ μ᾽ εἴα πόσιος κατὰ δῶμα λιποῦσαν: (19-530,1)
私の息子は、まだ幼く思慮浅いときには
私が夫の家を去って嫁ぐことを嫌がりました
νῦν δ᾽ ὅτε δὴ μέγας ἐστὶ καὶ ἥβης μέτρον ἱκάνει,
καὶ δή μ᾽ ἀρᾶται πάλιν ἐλθέμεν ἐκ μεγάροιο,
しかし成長し成人の域に達した今となっては
私が館を出て(実家へ)帰る様にと彼は望むのです
κτήσιος ἀσχαλόων, τήν οἱ κατέδουσιν Ἀχαιοί.
アカイア人達が食いつぶす財産のことで苛立って
テーレマコスの考えが(ペーネロペイアの口を通してだが)明かされる。これまでこれほど明確にテーレマコスの本心が語られることはなかった。
母親の再婚問題については、テーレマコスは過去嫌がっていたということだが、では今賛成かというとそこまでは言っているわけではない。彼の関心の重点は再婚云々よりも家と財産の継承管理にある。倫理より政治にあるということか。
今日プルーストを呼んでいたら jeu(あそび)が、「ゆとり、余裕」の「あそび」の意味で使われている箇所に出くわした。フランス語のjeuにこの意味があるとは知らなかった。「ハンドルのあそび」や「名人の芸にはあそびがある」の「あそび」だ。調べてみたら英語のplay にも同様の意味があるらしい。
日本語のこの「あそび」の用法は西洋由来のなのだろうか。他の国、例えば中国、韓国にはあるのだろうか。ホメーロスにはないようだが。一度調べてみたい。