10月6日
ペーネロペイアは自らの境遇を嘆いた後、オデュッセウスに出自を問う。出自を問うのは実は二度目だ。自分の境遇を述べる前にも訊ねたのだったが、オデュッセウスはこう言って答えなかったのだった。
μή μοι μᾶλλον θυμὸν ἐνιπλήσῃς ὀδυνάων
μνησαμένῳ ・・・ (19-117,8)
私の心をより一層の苦しみで一杯にしないで下さい
思い出させて・・・
しかし今度はこう言いつつ答える。例によって作り話ではあるが。
ἀλλ᾽ ἔκ τοι ἐρέω: ἦ μέν μ᾽ ἀχέεσσί γε δώσεις
πλείοσιν ἢ ἔχομαι: ・・・ (19-167,8)
しかしあなた様にお答えしましょう、あなたは私に悲しみを与えるでしょうが
私が持っているいる以上の(悲しみを)・・・
思い出すことによって悲しみが増す、語ることによって実際に持っている以上の悲しみを持つことになる。これは真理だ。オデュッセウスは作り話をしつつも真理を語る。
今日の一節と一見逆のことを述べた詩行があることを思い出した。それは既に引いた次の詩行だった(八月十二日の項)。
κήδεσιν ἀλλήλων τερπώμεθα λευγαλέοισι, (15-399)
お互いに辛かった苦しみを楽しむとしよう
μνωομένω: μετὰ γάρ τε καὶ ἄλγεσι τέρπεται ἀνήρ,
ὅς τις δὴ μάλα πολλὰ πάθῃ καὶ πόλλ᾽ ἐπαληθῇ. (15-400,1)
思い出に浸りながら、人は苦難も後には楽しむのだから
沢山の難儀を蒙り沢山の放浪をした人は誰でも
豚飼がオデュッセウス扮する老人に対していった言葉だ。これも深い真実を語っている。すると今日引用の一節との関係はどうなるのか。ほとんど逆のことをいっているようだが。
それはこういうことではなかろうか。その時の人生の局面の如何による、時と場合によると。例えば、苦しみや悲しみの最中にあるときは前者(今日の一節)が真理であり、苦しみや悲しみが過去のものとなっているときは後者が真理だ。また、親が喪った子供を思い出す様な場合は多く前者であり、自らの失敗故嘗めた辛酸を思い出す場合は多く後者だという風に。