9月16日
豚飼はペーネロペイアに、(オデュッセウス扮する)老人がオデュッセウスの消息を知っているらしいと伝える。ペーネロペイアは、その老人から話を聞きたいから連れてきてくれと言って、「もしオデュッセウスが故郷に帰ってきたらすぐにも息子と一緒に男達の横暴に報復することでしょう」と付け加える。それに続く詩行はこうなっている。
ὣς φάτο, Τηλέμαχος δὲ μέγ᾽ ἔπταρεν, ἀμφὶ δὲ δῶμα
σμερδαλέον κονάβησε: γέλασσε δὲ Πηνελόπεια, (17-541,2)
このように言った、するとテーレマコスが大きなクシャミをして、家中
凄まじく鳴り響いた。ペーネロペイアは笑った
この詩行には思わず笑わされた。名場面だ。
まず、クシャミ(クシャミをしたἔπταρεν)が出てくるのには驚く。テーレマコスがクシャミしたのは(ペーネロペイアが自分のことを話しているのを聞いていないのだから)一種の第六感からだろう。ホメーロスにおいても第六感がクシャミと結びついているのは面白い。
又、ここで垣間見える母と息子の間の微妙な心理も興味深い。母は息子を頼りないと思いつつも期待している。息子は母のそのような気持ちを感じているが距離を置いている。おそらく二人で直接報復の相談などはしなかったのではないか。
更にもう一つ見逃せない点がある。ペーネロペイアは悲しみにうち沈んでいたはずだ。542行目はその最中での笑いだ。これは『イーリアス』におけるアンドロマケーの「涙ながらに笑ってδακρυόεν γελάσασα(6-484)」を想起させる。そういえば、その時のアンドロマケーの笑いは、幼子がヘクトールの兜飾りに怯えのけぞり悲鳴を上げた仕草に起因したものだった。その「幼子の悲鳴」に当たるのが、ここでは「テーレマコスのクシャミ」となっている。
『イーリアス』第六歌におけるアンドロマケーの泣き笑いの場面とこの『オデュッセイアー』第十七歌におけるペーネロペイアの悲嘆中の笑いの場面、いずれ劣らぬ名場面で、好一対だ。そして、後者の名場面の鍵がクシャミであるのは『オデュッセイアー』ならではだと思う。
『古今集仮名序』の終わり近くには六歌仙の短評がある。それは恐らく日本における文芸批評の嚆矢だろう。今日改めて読み返してみたが、六人それぞれに面白い。例えば業平。
「ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし。」
まことに的確で犀利だ。批評の一つの手本がここにあると思う。