9月2日


テーレマコスは帰館して母ペーネロペイアに会う。ペーネロペイアは涙を流して喜ぶ。色々旅のことを聞こうとするが、テーレマコスは「湯浴みし、美しい衣裳を着て、二階に行って、もしゼウスが報復を成し遂げさせて下さるなら全ての神々に大贄を捧げますと祈るように」と言う。そして次の一節となる。


ὣς ἄρ᾽ ἐφώνησεν, τῇ δ᾽ ἄπτερος ἔπλετο μῦθος. (17-57)

そのよう彼はに言った。すると彼女に言葉はἄπτεροςであった。


そして彼女は言われたとおりの祈りを捧げる。

さてこの詩行後半の解釈だが、実に興味深い問題を含んでいる。

先ず一つ目の問題は、ἄπτεροςの意味だ。二つのとり方がある。

A:(語頭αを否定の接頭辞とみて)「翼がない」

B:(語頭αを強意の接頭辞とみて)「翼の如く速い」

二つ目の問題は、「言葉μῦθος」が誰の言葉かで、これも二つのとり方がある。

a:ペーネロペイアの言葉

b:テーレマコスの言葉

これら二つの問題は連関していて、Aはaと、Bはbと結びついている。

前者(A+a)によれば、この詩行後半の解釈は「すると彼女において言葉は翼がなかった」即ち「(息子のあまりにもきっぱりとした物言いに)彼女は何も言葉を返すことが出来なかった」となる。

一方、後者(B+b)によれば、「すると彼女に対して言葉は翼の如く速かった」即ち「彼女に言葉はすぐ達した(そして彼女はそれに従った)」となる。

前者の解釈には曲がある。「翼ある言葉ἔπεα πτερόεντα」という定型句があり、それは『オデュッセイアー』の中だけでも何十回か出てくる。そんな中で「翼がなかった」とは諧謔がある。呆気にとられたペーネロペイアの顔が浮かぶようでもある。

後者の解釈はそれとは逆に、定型句「翼ある言葉ἔπεα πτερόεντα」に反旗を翻すのではなく、むしろその定型句を踏まえて「翼ある言葉ἔπεα πτερόενταという定型句があるがまさにその句さながらに」といった語調だ。

さてどちらをとるか。前者は、魅力的解釈なのだが、そこにある曲は個性重視の近代的な感覚なのかも知れない。後者の悠揚迫らざる措辞だとする解釈の方がホメーロス的ではないか。そこで後者に軍配を上げたい。


今日、耳鼻咽喉科の専門医に会う機会があった。その人曰く、咽頭癌にかかった人はこれまで全摘して言葉を失う人が多かった。しかしフランスはさすが議論とお喋りの国、それを拒否する人が多かった。そのために声門を残す手術方法が研究され現在フランスはその分野で世界最高水準にあるのだそうだ。そして日本はというと、フランスとは逆に「雄弁は銀」の伝統のせいか、声を失う事はやむを得ないとする素地があってその研究が遅れていた。しかしこのところやはり声を残したいとする人が増えてきて、会った先生もその術をフランスに学び実践しているのだという。

翻って自分はどうか。日々の生活は別にして、ホメーロスを読むことにおいても声を失うことは大きな打撃だ。黙読は出来る、人の朗読は聞けるとしても、自ら声に出して朗読し味わうことが出来なければその魅力は半減するのではなかろうかと思う。