8月18日
テーレマコスは一人豚飼の所に向かう。
τὸν δ᾽ ὦκα προβιβάντα πόδες φέρον, ὄφρ᾽ ἵκετ᾽ αὐλήν, (15-555)
素早く歩む彼を両足が運んだ、(豚飼小屋の)庭に着くまで
「彼を両足が運んだτὸν πόδες φέρον」とは興味深い表現だ。
足が人を運ぶ。どうしてこういう表現がされるのか、以前『イーリアス』を読みながら考えてみたことがある。『イーリアス』には数例ある。
「『あなたの世話はだれか従卒に任せ、私はアキレウスの許に急ぎ戦いへと促そう、神の助力で説得して彼の心を奮い立たせることができないと誰がいえよう、友の勧めはよきもの故。』このように言った彼を両足が運んだτὸν μὲν ἄρ᾽ ὣς εἰπόντα πόδες φέρον:」(15-401~5)
これは、パトロクロスが潰走するアカイア勢を目の当たりにして、何とかして戦列を離脱しているアキレウスを促し復帰させねばと思い、彼のもとに向うところだ。しかし戦列離脱の原因であるアキレウスの怒りは深い。どのような言葉で、どのようにして説得しようか。そのことが意識を領している。
次の例では、今度はパトロクロスが討たれ、その悲報を知らせようとアキレウスのもとに泣きながら向うアンティロコスを「両足が運ぶ」。
「戦場から涙を流している彼を両足が運んだτὸν μὲν δάκρυ χέοντα πόδες φέρον、悲しい報せをペーレウスの子アキレウスにもたらさんとする彼を」(17-700,1)
「両足が運ぶ」の表現の他のいくつかの箇所も、あるいは思いに沈んだり、あるいは戦闘で憔悴したり、あるいは自らの雄姿に酔ったりして、いずれも心ここにあらずのくだりである。意識が何かに没頭し捉われているとき、身体は意識の指令を待つまでもなくみずから動くということではなかろうか。身体の世界は意識の世界を超えて広がっている。
そこで今回の『オデュッセイアー』の上の引用を改めて見てみる。
τὸν δ᾽ ὦκα προβιβάντα πόδες φέρον, ὄφρ᾽ ἵκετ᾽ αὐλήν, (15-555)
素早く歩む彼を両足が運んだ、(豚飼小屋の)庭に着くまで
彼テーレマコスは、まもなく帰る館でどう求婚者に対峙したものか、どう決着をつけるか、今後の行く末に思いを致している。意識はその思いに領されている。だからやはり「両足を運ぶ」のではなく「両足が運ぶ」のだろう。こういうところを見ていると、両詩編の「作者同一詩人説」に与したくなる。
ところで、日本語でも「手が出る」とか「体が動く」と言うことがある。好物には思わず「手が出る」のであり、手を出すとは言わない。柔道を見ていて思わず「体が動く」のであり、体を動かすのではない。これらの表現はホメーロスの「両足が運ぶ」に似ている。しかしよく吟味すると、身体が意識の指令なしに動く点は共通だが、「両足が運ぶ」の方は更に踏み込んで「人を」運んでさえいる。それは詩的諧謔でもあろうが、と同時に、意識偏重・身体忘却の近代的通念に慣れた我々にとって一つの痛棒でもある。