8月12日


オデュッセウスは今度は、豚飼のイタケーに来た経緯を訊ねる。すると豚飼は、今夜はゆっくり語ろうと言ってこう続ける。


κήδεσιν ἀλλήλων τερπώμεθα λευγαλέοισι, (15-399)

お互いに辛かった苦しみを楽しむとしよう


μνωομένω: μετ
ὰ γάρ τε καὶ ἄλγεσι τέρπεται ἀνήρ,
ὅς τις δὴ μάλα πολλὰ πάθῃ καὶ πόλλ᾽ ἐπαληθῇ. (15-400,1)

思い出に浸りながら、人は苦難も後には楽しむのだから

沢山の難儀を蒙り沢山の放浪をした人は誰でも


まるで賢者の箴言のようだ。


 この一節についてピエロンはこういう註釈をつけている。

「『苦しみを楽しむとしようκήδεσιν τερπώμεθα』の詩句は『涙ながらに笑いながらδακρυόεν γελάσασα』と同様に解されねばならない。この二つの詩句は全く同種の対蹠的語句の結びつきである。この天才的発見は、詩人が人間の心への深い洞察に汲んだものであることは指摘するまでもないことだろう」

ピエロンが引く「涙ながらに笑いながらδακρυόεν γελάσασα」は『イーリアス』のあの名場面、「ヘクトールとアンドロマケーの別れ」にある詩句だ。

παῖδ᾽ ἑόν: ἣ δ᾽ ἄρα μιν κηώδεϊ δέξατο κόλπῳ
δακρυόεν γελάσασα: πόσις δ
᾽ ἐλέησε νοήσας, (6-483,4)

(ヘクトールは妻の手に)彼の息子を(置いた)、妻は香しい懐に受けた

涙ながらに笑いながら。夫はそれを見て哀れんだ

 ヘクトールは戦場に赴こうとしている。ヘクトールもアンドロマケーもこれが最後の別れであることを予期している。幼子は、この直前の場面でヘクトールが抱き上げようとした時、兜の馬毛の飾りに驚き反っくり返って泣いたのだった。そこで「涙ながらに笑いながらδακρυόεν γελάσασα」だ。

 ピエロンの言うとおりだ。両詩編の底に共通に流れる詩人の思想の核心がここにある。そしてそれが、『オデュッセイアー』では豚飼の口から語られているのはいかにもこの詩編らしい。