7月25日


そしてついに(依然として話の中でだが)イタケーに到着する。しかし自分は船乗り達に船に縛りつけられ、彼らは浜辺に降りて食事をとる。


αὐτὰρ ἐμοὶ δεσμὸν μὲν ἀνέγναμψαν θεοὶ αὐτοὶ
ῥηϊδίως: κεφαλῇ δὲ κατὰ ῥάκος ἀμφικαλύψας, (14-348,9)

そのとき神々自らが結び目を解いて下さった

たやすく(解いて下さった)、そこで私は頭にボロをひっ被き、


ξεστ
ὸν ἐφόλκαιον καταβὰς ἐπέλασσα θαλάσσῃ
στ
ῆθος, ἔπειτα δὲ χερσὶ διήρεσσ᾽ ἀμφοτέρῃσι (14-350,1)

磨いた渡し板を伝って降り、海に近づけ

胸を(近づけ)、そして両手で掻きわけ(泳ぎ)ました


この一節もリアリティーがある。「頭にボロをひっ被き」とあるのは泳ぐ邪魔にならないようにであり、衣類を濡らさないためでもある。「海に胸を近づけた」は更に真実味がある。飛び込めば岸辺で食事中の船乗り達に知られるから、慎重に胸まで入ってから泳ぎだしたのだ。それを「海に胸を近づけたἐπέλασσα θαλάσσῃ στῆθος」とは措辞に全く無駄がない。


論理と情緒。詩においてはどうだろう。詩は論理ではないといわれるが、論理を無視しては成り立たない。叙事詩ともなれば余計そうだろう。聴衆や読者はどうしても理由や因果関係を求める。今日引用した一節もそうだ。「頭にボロをひっ被きとあるのは泳ぐ邪魔にならないようにであり、衣類を濡らさないためでもある」というのは論理であり、その論理性が詩句のリアリティーを高めている。しかしまた、論理にとらわれるのでは詩趣をとらえ損なうことになりかねない。詩にはやはりこだわりのない柔軟な姿勢で対することが一番なのだろう。