7月24日


オデュッセウスの作り話も終わりに近づく。曰く、テスプロートイの王のもとから送り出されるが、運送を託された船乗り達が悪だくみをする。自分を奴隷になさんとしたのだ。着衣を剥ぎ取り、


ἀμφὶ δέ μοι ῥάκος ἄλλο κακὸν βάλον ἠδὲ χιτῶνα,
ῥωγαλέα, τὰ καὶ αὐτὸς ἐν ὀφθαλμοῖσιν ὅρηαι: (14-342,3)

代わりにひどいボロの上衣と肌着を投げて寄越した

ボロボロのを、ほらそなた自身も目に見ているこれじゃ


「そなたが目に見ているἐν ὀφθαλμοῖσιν ὅρηαι」、語り手が二人称で聴き手を登場させている。話の中の世界がそれを語っている現在と繋がる瞬間だ。

それともう一つここで気がつくのは、オデュッセウスの作り話の巧みさだ。昨日、信憑性には必ずしも拘っていないと言ったが、ここでは「ボロ」という細部を利用して話に真実らしさを与えている。即ち、目の前の「ボロ」の存在の確実性がその由来を説明する話の確実性を保証するかの様に。実はそれは錯覚であり、二つの確実性は全く別物であるにもかかわらずだ。弁論術に似たような手法があったと思う。


 日本は伝統的に弁論はあまり得意ではなかったようだ。そんな中で、優れた弁論として真っ先に思い浮かぶのは『平家物語』の「大教訓」の巻だ。そこでは重盛が法皇幽閉を図る父清盛に対しその非を説いて、理路整然、立て板に水、金言名句に富み声涙共に下る名弁論だ。朗読していても心地よく賛嘆の他ない。しかし不思議なことに、聴き手・読者がより共感を覚えるのはおそらくその立派な弁舌の重盛ではなく、鎧を隠そうと「頻りに衣のむねを引ちがへ引ちがへ」したり、息子に説き伏せられて鎧を脱ぎ捨て「いと心にも起こらぬ念珠して」いる清盛の方なのだ。情緒は論理では尽くせない。