7月18日
オデュッセウスの問に対して豚飼はついにその名を出す。
ἀλλά μ᾽ Ὀδυσσῆος πόθος αἴνυται οἰχομένοιο. (14-144)
しかし行ったきりのオデュッセウス様を思う気持ちで心は奪われている
「オデュッセウス」の名が本人の面前でそれと知らぬ豚飼の口から出る。
τὸν μὲν ἐγών, ὦ ξεῖνε, καὶ οὐ παρεόντ᾽ ὀνομάζειν
αἰδέομαι: πέρι γάρ μ᾽ ἐφίλει καὶ κήδετο θυμῷ: (14-145,6)
客人よ、この場におられないその方の名を口にすることさえ
憚られる、というのもわしを心にかけ可愛がって下さったから
ἀλλά μιν ἠθεῖον καλέω καὶ νόσφιν ἐόντα. (14-147)
遠くにおられても大切な方とお呼びするのだ
「この場におられないοὐ παρεόντ᾽」」とか「遠くにおられてもκαὶ νόσφιν ἐόντα」とか、本人の面前であるだけに、また一途な豚飼の言葉であるだけに諧謔味がいよいよ増している。
ところで何故「名を口にすることさえ憚られる」のか。「可愛がって下さった」からという説明がなされてはいるが、それだけでは充分な理由とはなっていない。ピエロンは「ただ名前だけで、何の美称も付けずに呼ぶこと」を憚ったのだと註釈している。が、どうだろうか。そうではなくて、恩人の名を軽々に口にすべきではない、という気持ちが背後にあるのではなかろうか。古代においては「名」がほとんど魂と同じ重い意味を持ち、名告ることが例えば求婚やその承諾を意味したりすることもあった。そういう心性がここに揺曳しているのではないかと思う。