7月11日


 オデュッセウスに豚飼のところに行くよう勧めたアテーネーは、自分はスパルタのメネラーオスの館にいる息子テーレマコスのところに行く、彼は父親の消息を求めてそこに行っているので、と言う。それを耳にしたオデュッセウスは聞き咎めたようにして言う。


τίπτε τ᾽ ἄρ᾽ οὔ οἱ ἔειπες, ἐνὶ φρεσὶ πάντα ἰδυῖα; (13-417)

一体何故あなたは全て知っていながら彼に言ってやらないのです


ἦ ἵνα που καὶ κεῖνος ἀλώμενος ἄλγεα πάσχῃ
πόντον
ἐπ᾽ ἀτρύγετον: βίοτον δέ οἱ ἄλλοι ἔδουσι; (13-418,9)

もしかして彼も彷徨って苦難を蒙るようにとですか

果てしない海の上で。他の連中が身上を食い潰しているというのに


もっともな問いだ。聴衆も読者も抱く疑問だ。神がその気になればもっと早く解決するものを無駄な遠回りをさせることがしばしばある。オデュッセウスの漂流にしてからがそういう要素を多分に含んでいた。418行目で「彼もκαὶ κεῖνος」と言っているからひょっとしたらこのオデュッセウスの問いは、それも含めた不満の表明であったかも知れぬ。

そしてここにもこの詩編の端倪すべからざるところがある。即ち聴衆や読者の疑問を先取りして、登場人物に代弁させる。それは詩人の技の一つだろう。


夜、床に百足が這っていたのでびっくりした。うねくる奴をなんとかつまみ出した。やはり夏だ。

「うねくる虫」という表現がホメーロスに確かあった。調べてみたら百足ではなく蛆だが『イーリアス』にあった。夫ヘクトールの遺体を思ってのアンドロマケーの言葉だ。

αἰόλαι εὐλαὶ ἔδονται, ἐπεί κε κύνες κορέσωνται (22-509)

うねくる蛆が食らうでしょう、犬共が飽いたあとで

αἰόλαιが「うねくる」でεὐλαὶが「蛆」だ。αἰόλαι εὐλαὶ [aiolai eulai] の詩句の持つ音調は、悲しみに眉を顰め、顔を歪め、身をくねらせてさえいるアンドロマケーの姿を浮かび上がらせている。