7月6日


オデュッセウスは睡りから目覚める。

最初は見知らぬ土地にきたものと思って嘆く。しかし土地の若者に姿を変えたアテーネーから、故郷イタケーであることを聞き喜ぶ。ところがオデュッセウスは、


οὐδ᾽ ὅ γ᾽ ἀληθέα εἶπε, πάλιν δ᾽ ὅ γε λάζετο μῦθον,
α
ἰεὶ ἐνὶ στήθεσσι νόον πολυκερδέα νωμῶν: (13-254,5)

しかし真実を言わなかった、言いかけた言葉を呑み込んだのだ

いつもながら胸に狡知に長けた心を働かせて


そして、クレーテーでもイタケーのことは聞いていた、そこから


φεύγω, ἐπεὶ φίλον υἷα κατέκτανον Ἰδομενῆος, (13-259)

逃げてきたのです、イードメネウスの息子を殺して


とありもしない嘘を語り始める。その嘘たるや、殺害に至った理由(イードメネウスの息子がトロイアからの戦利品を奪おうとしたため)、殺害の状況(畑から帰ってくるところを仲間と待ち伏せしていて襲った)、その後の逃避の航海等々、三十行あまりに及ぶ。それは「あることないこと」どころではなく、ほとんど作り話だ。あまりにもっともらしい真っ赤な嘘なのでほとほと感心する。

どうしてこれほど嘘をつくのだろうか。勿論、この土地が故郷イタケーであったとしても、いやイタケーであれば尚更警戒しなければならないということはあろう。それにしてもこれだけ手の込んだ虚構を作り上げるとは、一種詩人の業に通じるものがありそうだ。


 全くの偶然なのだが、今日プルーストを読んでいたら、あの小説の中で「睡り」について触れた次の一節に出くわした。

「私は重い睡りに落ちた。そこは、我々の幼年期への回帰、過去の年月や失われた感情の再把握、魂の肉体からの分離や転生、死者の喚起、狂気の幻想、最も原始的な自然界への退行(中略)、そういったものが全て露わになるところである。それらの神秘を我々は自分が知らないと思っているが、実はそれらを我々はほとんど毎夜、もう一つの死滅と再生の大いなる神秘と同様、伝授されているのである。」(花咲く乙女たちの蔭に)

 本歌までのオデュッセウス漂流譚とこの一節とを比べてみよう。すると、オデュッセウスの漂流譚とこの一節に言う「睡りにおいて露わになるもの」との間に、多くの通ずる点があることに驚く。トロイア戦役やその後の漂流の年月とそこにおける感情の再把握があった、冥界巡りでの死者の喚起があった、様々な原始的寓意を感じさせる幻想的怪獣、怪女が登場していた、等々。

 「そこで露わになるもの」とは即ち夢だろう。オデュッセウスがイタケーで重い睡りから覚めたとき、もしすぐ傍らにパイエーケス人達からの土産の品がなかったなら、これまでの自らの漂流譚は全て夢だったのではないかと疑っても不思議はなかったのだ。